DTH2 カサブランカ

第5話 心の呼ぶ方へ

 英雄は霧の中にいた。濃霧、というのだろうか。あたり一面真っ白でなにも見えないその世界で、誰かが呼んでいる。答えようとして目が覚めた。
 ベッドに身を起こす。サイドテーブルにセレンの用意した朝食と薬、メモが置いてあった。
 軽い頭痛を覚えながら、英雄はメモに手を伸ばした。
「出かけたのか…」
 外に目をやると青空が広がっていた。
 街並みに覚えがある。なぜだろう。
 自分は暗殺者だ。それは覚えている。しっくりと手に馴染む銃がその証だ。セレンとも何度か仕事をしたことがあるし、自分が組織にいることにも違和感は覚えない。
 それでも、心がざわつく。
 リハビリ代わりにとセレンのガードをしたあのレストラン。居合わせた人々との関係をセレンは説明しなかったけれど、誰もが自分に向けて名を呼んだ。

『英雄』、と。

 あれは、僕の、名前だ。

 違う。
 僕は名前など持っていない。呼ばれたことなどない。
 違う。
 セレンは僕の名前だと言った。現にセレンだってそう呼ぶじゃないか。
 違う。
 ピッツバーグで会ったあの子もそう言った。

 あの時なぜ、自分が呼ばれていると思った?
 
 渦巻く思考に英雄は吐き気を覚えた。何もかもがうつろではっきりしない。
 胸を押さえてうずくまる。体ではないなにかが痛む気がした。

 呼んでいる。この僕を。君が、呼んでいる。

 英雄は顔を上げた。まだ足が少しふらつく。自分の体調を省みて、3時間程度なら外にいても大丈夫だろうと判断を下す。
『英雄』のことを調べよう。
 彼は、そう心に決めていた。
 


 赤のチェックと木目で統一された店内のあちこちに、観葉植物が飾られている。葉の緑が店内の色彩に一際映えていた。黒のエプロンと三角巾をした店員がにこやかに客をもてなす。
 その様子を横目で見ながら、ガイナスは紅茶を口にした。
「あんたの何が嫌いって言われたらその神経の図太さだよね〜」
「そうか?」
 対面に座ったセレンが不思議そうに首を傾げる。
「そうだよ。こんな状況でよく僕に連絡寄越したよね。クレバスなんかが見たらマジギレするよ?すっごく怒ってたんだから〜」
「それは困るな」
 セレンのコメントにガイナスは口をへの字に曲げた。カップを両手で抱えたままセレンを見る。
「だいたいさぁ、僕にはもっと他に言うことあるんじゃないの〜?」
「他に?」
「生きててすいませんでした、とかぁ」
 拗ねたように言うガイナスにセレンが苦笑した。
「すみませんでした?謝るのか?」
「黙ってたでしょ?僕に」
「だがお前の連れには話したぞ」
 知ってる、とむっとしたままガイナスは答えた。
「僕らがこの街から出る時に、あんた、シンヤに連絡先とクレジットカード渡したって?」
「なんだ、知っていたのか」
 お互い様じゃないか、とセレンが言った。それがまたガイナスには気に食わない。
「シンヤが話してくれた。といっても最近だけど」
 ふうん、とセレンが曖昧に頷いた。と、なにかに気づいたように眉をひそめる。
「あの番号を出会い系に登録したのはお前か?」
「そう」
 ガイナスが悪びれずに答える。
「だってムカついたんだもん」
「私は現在進行形で不快だがな」
 セレンが不機嫌そうに紅茶に口をつけた時、店員がデザートを運んできた。
「お待たせしました。ワッフルです」
 気品ある白い皿にワッフルの色がよく映えていた。ふんわりと焼き上げられた生地に、はちみつとキャラメルソースがかかっている。横に添えられた生クリームには、ラズベリージャムとミントの葉が飾られていた。
「わあ」
 ガイナスが声を上げる。驚くその表情にセレンが満足げに微笑んだ。
「カロリー高そ」
「食わせ甲斐のないヤツだ」
 続く言葉に落胆の色を隠せないセレンは、二度と呼ぶまいと決心した。
 それでもフォークとナイフを手にしたガイナスが切り分けたワッフルを口に運ぶ。
 その表情がとたんに和らいだ。
「美味しい」
 素直に笑みを見せるガイナスに、セレンは言った。
「だろう?ここのワッフルはな…」
「ウンチクなんかいいよぉ。不味くなるじゃん」
 憮然とした顔でセレンが黙る。
「私の話を遮るのはお前くらいだ」
「良かったね、一人いて」
 嬉しそうにワッフルを頬張るガイナスを見ながら、セレンは紅茶に口付けた。琥珀色の液体を飲み干す唇が微笑んでいたのは、カップだけが知っている。

「条件、あったんでしょ?」
 唐突に、ガイナスがワッフルを食べながら言った。
「条件?なんの話だ?」
「もう〜、とぼけちゃってぇ」
 フォークをくわえたガイナスがむくれて見せる。
「組織がまだあるんなら、僕らを見過ごすわけないじゃない。それが一つ目。二つ目は、英雄の手術の代償。ボランティア組織じゃないんだからさ〜、あるでしょ、普通」
 セレンが興味深そうに微笑んだ。
「なんだと思う?」
 ガイナスが視線を巡らせた。
「…ひとつは、情報かな。前の組織への攻撃の事前情報を渡すこと。もうひとつは…う〜ん…」
「猫に鈴」
「え?」
 目を丸くするガイナスの前で、セレンはYシャツのボタンを2つほど外した。軽く捲られたその先の胸にある傷を認めた瞬間、ガイナスは立ち上がった。
「ちょっと!!」
 思わず叫ぶガイナスに店中の視線が集中する。
 セレンはガイナスを見上げると、瞳を伏せて言った。慌てるわけでもなく、セレンのペースでボタンをあわせていく。
「座れ」
「やだよ、なにソレ」
 ガイナスの問いにセレンは答えなかった。

 見覚えがある、その傷。かつて自分にもシンヤにもそれはついていた。
 胸の――――爆弾。
 立ち上がったままガイナスはセレンを睨んだ。手が震える。かつて自分がしたことのツケが今回ってきているような錯覚にすら陥った。
 
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