DTH2 カサブランカ
「英雄!?」
クレバスは英雄の肩をゆすった。ひどく顔色が悪い。いやな冷気が背中を伝うのをクレバスは感じた。英雄が倒れた時の事を回想する。あんな無力感、二度とご免だ。車を止るため大通りに出ようとするクレバスの足を、英雄が掴んだ。
「だ、いじょうぶ…」
「大丈夫じゃないだろ、お前…」
熱を確かめようと英雄に額を近づけたクレバスを英雄は凝視した。何かを確かめるように目をこらす。
「…クレバス?」
クレバスが目を見開いた。
「英雄?」
英雄がだるそうに視線をめぐらせた。辺りの街並みを確認するように一通り見回して、再びクレバスに視線を戻す。
「いや、違うな。…あの子は、もっと」
「英雄、思い出したのか?オレがわかる?」
クレバスの声が震える。英雄が眩暈を感じたように額を押さえた。打算的な光がその奥の瞳に宿ったことをクレバスが知るはずもない。
「家に、帰らなきゃ…」
英雄が呟く。語尾を濁すのは故意だ。話術の初歩。自分から話したように見せかけて、相手から情報を引き出すための。
この少年は自分を知っている。
情報を、得なくては。
「ああ、家が近い。肩を貸すよ」
言ったクレバスが英雄の手を肩に回した。ふいにこみ上げる感慨が英雄の胸を満たす。自分に戸惑いながら英雄はクレバスを見た。この少年を知っていると、体中の感覚が訴えていた。
それが家だと案内される前に、英雄は足を止めた。
白い壁の、なんの変哲もない一軒家。ひどく懐かしいのはなぜだろう。
知っている。
英雄は周囲の景色を見た。
庭の芝生に見覚えがある。郵便受けも、ペンキを塗りなおされているのがわかる。柱の傷、窓から見える部屋の中、全てに覚えがあった。
「英雄?」
「…僕の家だ」
家とその前にいる少年、帰るべき場所はここだと胸が告げた。
帰ってきた…!
身に覚えのない感慨に溺れそうになる。英雄は溢れそうになる感情を押さえ込んだ。
間違えるな。僕は情報を得に来たんだ。
言い聞かせる言葉は、暗示にも似ていた。
「どうにも記憶が定まらないな…でも、懐かしい」
言いながら英雄が居間のソファに腰を下ろした。かつて、彼がお気に入りだったその場所に当然のように収まる。それを見た瞬間、クレバスは動きを止めた。
英雄が生きてる。
とっくに知っていたはずの事実を、改めて思い知った。
「どうかした?」
視線に気づいた英雄が微笑む。
「…ううん。なにか飲むだろ?」
聞きながら腕が反射的にコーヒーメーカーのスイッチを押す。重症だ、とクレバスは思った。
英雄が部屋の中を見渡した。
テーブルにソファ、相変わらずゆったりと時を刻む時計。
家具の一つ一つにも覚えがある。
『お前、メシ食いながら本読むのやめろよ』
『これは高尚な脳の運動なんだよ、クレバス。右脳と左脳を同時に使ってね』
『嘘つけ』
なんて馬鹿な会話をしたんだ。英雄の唇が、知らずほころんだ。
「コーヒーでも貰おうかな」
反射的に出た言葉に驚いたのは、むしろ英雄のほうだった。他人の家でなにかを口に入れるなんて考えられない。けれど言葉が勝手に出てきた。それが当たり前のように。
「うん」
満面の笑みでクレバスが答える。英雄は断り損ねた。
淹れられたコーヒーは、かつて英雄が好んだ濃い目のブラック。クレバスはわざとミルクもシロップもつけなかった。
英雄がコーヒーに口をつける。と、眉間にわずかな皺が刻まれた。
苦い、と英雄が零すことをクレバスは期待していた。
本当はお前、これにシロップを少しだけ入れるんだよな。
なんだか懐かしいその仕草を見たいと、ただそれだけの、些細な悪戯心だった。
「美味しいよ。ありがとう、クレバス」
穏やかな笑顔で英雄が告げる。
すっと、顔から笑みが引くのをクレバスは自覚した。
拭いようのない違和感を抱えたまま、英雄を凝視する。
「どうした?」
屈託のない英雄の声。英雄の、声だ。
クレバスは引きつりそうになる頬を叱咤した。
「ううん、別に。久々だなって」
そう言って、笑う。
コーヒーの湯気が空気に溶けた。
一口、口をつける度に思い出がよぎるのを英雄は感じた。
『なんか飲みたい』
『コーヒーでいいだろ』
『うん、ありがとう、クレバス』
思い出される光景があまりに日常的で、英雄は恐怖した。今まで自分の築いてきたものが崩れそうだ。記憶のむこう、幸せそうな談笑が途切れ聞こえる度に耳を塞ぎたくなる。
そんなもの、僕は知らない。知っているわけがない。
記憶の扉の向こうにいる自分が、まるで別人のようだ。
わずかに震えたカップの中でコーヒーがさざめく。
早々に立ち去らねばと、負荷に耐えかねた心が急きたてた。
英雄がコーヒーを飲む間、クレバスは何も言わなかった。
語り合えないような空気が目の前にある。それは英雄の嘘が作り出した壁で、触ってしまったからには見なかったことに出来ない。その感覚すらもクレバスには覚えがあった。
人の本質は変わらないのだと、どこかの本に書いてあった気がする。
英雄の本質。それを自分は知っているだろうか。
クレバスの唇が微笑む。どこか寂しさを含んだ笑みだった。
「実は」
カップを置きながら英雄が言った。
「戻らなきゃならない」
その言葉の不自然さに、クレバスは気づいた。目的語がない。
英雄が戻るのはセレンのところだろうと見当がつく。それを、伏せた…?
理由を考えて、クレバスは確信した。
本当は、思い出してなんかいないのだ。英雄にはクレバスとセレンの関係性が読めていない。だから、セレンの名を伏せた。
そうだ。
英雄は今、オレに嘘をついている。
愕然という言葉はこういう時に使うのだとクレバスは思った。座っているソファごと奈落にでも落ちた気分だ。まだ陽は高いというのに、辺りが暗闇に包まれた気がする。
凍りつくような表情で自分を見るクレバスの心情を、英雄は誤解した。
「すまない。まだすべきことがあるんだ」
そう言って立ち上がる。
「見送るよ」
クレバスが立ち上がり、英雄の後に続く。
なぜ止めない?
心を掠めた疑問を英雄は無視した。
玄関でクレバスが足を止める。
英雄は構わず歩き続けた。二人の距離が開いていく。
一歩、また一歩。
「オレは知ってるよ。英雄は嘘つきだ。思い出してなんかいない。そうだろう?フェイクだよな」
数歩進んだ先で投げかけられたクレバスの言葉に、英雄は振り向いた。
なぜわかる。そう言いかけて、クレバスの表情に息を呑んだ。
クレバスは寂しさと怒りを混ぜた、今にも泣きそうな顔をしている。
なぜか、胸が痛んだ。英雄の心に、深く抜けない棘が刺さる。
「自分の情報が欲しければそう言えば良かった…。オレは喜んでいくらでも話したのに」
クレバスの声が震える。
むかつくほど英雄らしい行動だと、一度強く唇を噛みしめた。
「オレにわからないなんて思うな!ふざけんじゃねぇ!」
瞳に涙をたたえたまま自分を睨むクレバスを、英雄は冷めた瞳で見つめた。
「すまない」
君を傷つけるつもりはなかったと言いかけて言葉を呑む。そんなことを言える資格はない。
ああ、僕にはまるで無い。
名を声に出すことすらためらわれて、英雄は唇でクレバスの名を呼んだ。かつてそうしていたように、大切な宝物のように。
瞳に焼き付けるように、英雄はその景色を見た。
白い家、赤い屋根、玄関に佇む少年。
自分の還る場所。
いいや、そんなものは持ち合わせていない。
瞳を伏せた英雄がクレバスに背を向けた。唇を噛み締めたクレバスは、それを睨むように見据えるだけで止めようとはしなかった。
言いたいことはたくさんある。
そのどれも今の英雄には届かないのだと、クレバスは思った。たかがこんなことで泣きそうな自分がひたすらに悔しい。
悔しい、英雄。
歩き去る英雄の後姿は二度と振り返ることはなかった。
「街に出たそうだな、どうだった?」
セレンの声に英雄は瞼を上げた。いつの間に寝てしまったのか、わからない。手にした本をテーブルに置き、ソファに座り直すだけで景色が歪むようだった。気分がひどく悪い。それでもはっきり覚えていることがある。
自分を見送る、クレバスの顔。
心が抉られるようだと思った。
あれからここに戻るまで、心の中で言い訳を積み重ねて来た。そんなことする必要もないはずなのに、どうしてだかひどく後ろめたくて。
「人を、傷つけたよ」
呟くような英雄の言葉に、セレンが片眉を上げた。
第6話 END
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