DTH2 カサブランカ

 翌日、英雄はまた街に出た。
 素性を調べようとして、自分の存在痕跡がほとんど残されていないことに閉口する。誰かがきっちりと処分していた。その消し方のクセに覚えがある。
 おそらく自分、だ。
 英雄は自分の過去の追跡をあきらめて、クレバスを調べることにした。
 自分とあの少年はどんな関係だったのか、まるでわからない。
 家に立ち入った時の胸の痛み。こみ上げる懐かしさに恐怖しつつも、英雄は調べずにはいられなかった。
 記憶がないというのは自分の足元が不確かなのと似ている。立っている場所が薄氷の上なのか、泥沼なのかさえ見当がつかない。どこかに踏み出すことすら叶わない。
 今はセレンといるが、セレンを信用できる証などなにひとつない。目覚めた時傍にいた。ただそれだけの理由で信用することは出来ない。
 知らず早足になっていた英雄は、自分に尾行がついていることに気づいた。わずかに刃同士の擦れ合う独特の金属音がする。墓地での青龍刀の一団を思い出した。
 乾いた唇を舐める。
 湧き上がる高揚感を押さえきれない。
 英雄は知らずに、微笑んでいた。


 病院のオフィスの電灯が切れかけている。途切れがちな光を追って天井を見上げたハンズスは、力なく視線を机の上の書類に落とした。
 机の上に並べられた英雄のカルテ。
 彼の知る限りの病状を書き込んだそれに何度目を通したことだろう。
 最後の体の状態から、あそこまで動けるようになるなんて、何度見ても信じられない。
 息を吐いて、天井を見ながら椅子に体を預ける。椅子のボルトがわずかに軋んだ。
 英雄の体になにがなされたか、それを知らなければならない。そのためにハンズスは、倫理的に見れば吐き気がするような考えすら巡らせた。嫌悪感に眉間をしかめる。 
「英雄…」
 英雄が初めてマージの家に来てから死ぬまで、ハンズスはずっと傍にいた。英雄が自分をどこか疎んでいるのは知っていた。それでも、絶対に離れなかった。ハンズスとマージ、その存在が英雄を表の世界に繋ぎとめているのだと本能的に察していたからかもしれない。
 か細い、ともすれば途切れてしまうような、か細い糸だった。
 表か裏か。どちらか一方についてしまえば、英雄は楽だったのだろう。
 あの日、養父を手にかけた英雄を無理矢理繋ぎとめたのは自分だ。揺れる英雄の傍で正論だけを吐こうと心に決めた。後にそれが責めにも救いにもなることを、ハンズスは確信していたわけではない。
 最後の瞬間、看取る相手として自分を選んでくれたことがとても誇らしかった。同時にそれは医者としても刑事としても友人を救えなかった傷として、ハンズスの心に刻まれた。
 友人としてではどうだろう、少しは救いになったのだろうか?
 瞬くような電灯の光をハンズスは見つめた。
 途切れがちなその光が、英雄の命のようだと思いながら。


 港の倉庫街は殺伐とした雰囲気に呑まれていた。
 灰色の倉庫に暗闇が口を空けたような入り口がある。中には闇に棲む者達が集っていた。
「馬鹿な…たった一人で…」
 老人が呻く。手にした杖を力なく落とし、唇を震わせる。白を基調とした中華服には、同門の血が赤黒く染み込んでいた。
 英雄が倉庫に誘い込んでいるのはわかっていた。多勢に無勢、死に場所を決めたに過ぎないと思い込んだ自分が迂闊だったと悔いても、もう遅い。立てる者など残っていない。夜の帳が降りた倉庫街のそこここで、中華服の男が倒れ伏していた。
「生憎あんたのことも覚えていない。だが、武器での挨拶は武器で返すことにしている」
 英雄は言いながら老人の額に狙いを定めた。
「あんたもこの世界で生きているなら、悔いはないよな」
 言いながら引き金を引く。弾丸は老人の額をかすめ、壁にめり込んだ。
 力なく老人が崩れ落ちる。戦意を喪失したのを見届けて、英雄は背を向けた。
 英雄の靴音が倉庫内に響いた。
 知らずに笑いがこみ上げる。
 なんだって、こんな面倒くさいこと。
 誰一人殺さなかった。戦力を奪ったに過ぎない。
 ―――――と、約束したから。
 そう、以前もここで。ひどく疲れたこのだるさが良く似てる。
 英雄は、満足感にも似たすがすがしい気持ちで夜空を見上げた。月が微笑んでいるような気さえする。
 君に伝えたい。
 僕は約束を守ったと。
「随分楽しそうだな」
 セレンの声に英雄は振り返った。いつの間にここに来たのか、力なく崩れ落ちた老人の隣にセレンが立っていた。
 月光の煌きが、鋼糸が老人の首に巻かれていることを告げる。それを認めた英雄の眉間に深い皺が刻まれた。
「芽は摘め。そう教えたな」
 言い終わるが早いかセレンが糸を引く。老人の首がスローモーションのように落ちて行く様が、英雄の見開いた瞳に映し出された。
「セレン!」
 叫んだ英雄が銃に手を伸ばす。
 グリップを掴んで引き金に指をかける。
 一瞬交錯したセレンの瞳に動きを止めて、英雄は迷った。

 けれど、自分は手にかけた銃を戻す方法を知らない。

 迷った自分を叱咤するように英雄は銃を抜いた。
 
 向けられた英雄の銃口に、セレンはただ微笑した。

第7話 END
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