DTH2 カサブランカ
初夏に終わりを告げたNYはそれなりに気温が上昇していた。
今年はアリソンを海に連れて行ってやろうと考えながら、ハンズスは通りを早足で歩いていた。このところ、病院に通い詰めだ。マージが何も言わないのをいいことに、甘えすぎだと自戒する。いいや、恐らくマージは知っている。いつも仕事を切り上げて努めて早く帰宅するハンズスが遅い理由。ハンズスなりに英雄の現状を把握しようとしているのだと。
きっと、知っている。
俯いたハンズスの足が早まった。と、通行人の一人にぶつかった瞬間、相手がバランスを崩して膝をついた。持っていた荷物が辺りに散乱する。
「ああ、申し訳ない…」
ぶつかった相手を見たハンズスは驚愕した。
英雄!
英雄は額を押さえながら低く呻いていた。思わずハンズスは凝視した。
間違いない、英雄だ。
薬や書類が辺りにちらばっている。それらを拾い上げながら、ハンズスは咄嗟に自分の携帯を取り出した。暗証番号を素早く打ち込み、初期化して英雄の鞄に落とす。ついでに通りに落ちた薬をひとつずつ自分の袖に滑り込ませた。
「…っ」
「大丈夫か?」
英雄は何度か目を瞬かせた。それすら重いというように顔をしかめる。
「ああ」
「少し休んだほうがいい。今、水をもらってくる」
ハンズスはそう言って立ち上がった。英雄は、近くの店に駆け込んで行くハンズスを額を押さえた指の隙間から見た。
本調子じゃないにも程がある。
英雄は自分を叱咤した。
頭をもう一度振って、立ち上がる。
ハンズスがもう一度そこに戻った時、英雄の姿はなかった。落胆を覚えながら、ハンズスはカップに入ったミネラルウォーターを見つめた。カップの中の水はただ、揺らいでいた。
やがて訪れた夜は、穏やかに空に満ちた。
病院内にも静寂が訪れて、ハンズスの歩く靴音だけが響いている。
ハンズスは、廊下にある公衆電話に近づいた。
祈るような気持ちでボタンを押す。
プッシュ音が胸に響く。
自分の携帯の、番号。
コール音のひとつひとつが、とても長い気がした。
セレンの部屋でくつろいでいた英雄は、聞き覚えのない着信音に顔を上げた。セレンはまだ戻っていない。自分の鞄からだ。怪訝に思いながら、鞄を探る。出てきたグリーンの携帯に見覚えはなかった。着信を告げるランプが急かすように光り、見知らぬ番号を告げている。
しばらく画面を見つめた英雄は、通話ボタンを押した。
「…はい」
「英雄、俺だ」
出てくれたことに感謝しながらハンズスは告げた。受話器の向こうで英雄が息を飲むのがわかる。
「切らないでくれ!」
ハンズスは叫んだ。正に切ろうとしていた英雄の指が止まる。
「返事もしなくていい。そのまま、聞いてくれ」
ゆっくりと息をはきながら、穏やかにハンズスが告げた。返って来る沈黙を了承と受け取って、話し始める。
「君の、薬のことだ」
夜の病院の薄暗い廊下、ひっそりと佇む公衆電話でハンズスは話し続けた。公衆電話の上には、錠剤のサンプルがいくつか置かれている。昼間英雄とぶつかった時に手に入れた。成分分析にこんな時間までかかってしまったが、結果にハンズスは満足していた。
「免疫抑制剤の他に、精神制御系の薬がいくつか入っている。思考が鈍くなったりするのはそのせいだ。心当たりがあるようだったら、薬を選別して飲むといい。君の体に必要なのは…」
英雄は無言で聞き続けた。
熱心に語りかける誠実さが滲むその声を、知っている気がした。
ひどく安堵する。この安心感は何だ。
「…以上だ。最後まで聞いてくれてありがとう」
ハンズスがほっとしたように礼を述べた時、それまで黙っていた英雄が口を開いた。
「ありがとう、ハンズス」
自分の声の穏やかさに英雄は驚愕した。一体自分は何を言ったのか。咄嗟に電話を切る。英雄は口元を押さえたまま、ただ携帯電話を凝視した。
静まり返った病院の廊下に、通信音がわずかに響く。ハンズスは、受話器を置く気になれなかった。通信を切れば、そこでなにかが一緒に途絶えてしまうような気がする。
「バカ野郎…」
瞼を閉じればそれだけで涙が零れそうだ。
ハンズスは、唇を噛み締めながら自分が笑っているのを自覚した。
「どうした?」
突然降って来たセレンの声に、英雄は我に返った。いつの間に戻ったのか、セレンが部屋の入り口に立っている。英雄は出来るだけ自然な動作で携帯をしまった。
「いや、別に」
「そうか」
特に深く追求されなかったことに、英雄はほっと胸を撫で下ろした。それから、自分がそう思ったことに疑問を抱く。別に後ろめたいことをしたわけでもない。
英雄に構わずに、セレンがテーブルに書類を投げた。白い紙の束が封の緩んだ封筒から広がる。
「この間、そろそろ動いてもらうと言ったろう?復帰戦のターゲットだ。民間人だし、特にSPがついているわけでもない。リハビリには丁度良かろう」
英雄が書類を手にした。
生真面目そうな青年の写真を見て、眉を顰める。くせのある天然パーマ、真面目そうな分厚い眼鏡。どこにでもいる一般市民のようにも見えた。
「医者?」
「医者だ。根っからのおぼっちゃんのようだな」
英雄が資料に目を通す。
「ハンズス…?」
ターゲットの名前を英雄が零した。
「まったくどこで恨みを買ったのやら」
セレンが肩をすくめる。
英雄は、ポケットの携帯がやたらに重さを増すのを感じた。
第8話 END
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