DTH2 カサブランカ
第9話 「君との約束」
どこにでもいる普通の家族だ、というのがハンズス家に対する英雄の印象だった。仲睦まじい妻と娘、ごくごくありふれたホームドラマのようでもある。異変があるとすれば、主が命を狙われているぐらいだ。
ハンズスの写真を指で弾く。
英雄は顔を上げた。
調べはついている。
この時間に、あの男は一人でこの通りを通る。幸い人通りは少ない。
絶好の機会だ。
一日の仕事を終えたハンズスは、家路を急いでいた。アリソンと夜遊ぶと約束してしまった。彼女が寝る前にたどり着かなければと、気持ちも焦る。角を曲がって通りを過ぎれば、もうすぐ我が家だ。
角を曲がったハンズスは、そこに立ちはだかるような英雄を認めて足を止めた。夕陽の逆光で英雄の表情が読めない。
「英雄…」
「やはりお前だったか」
ハンズスの声を聞いた英雄が頷いた。電話の主の心当たりをずっと考えていた。
「これは返す」
投げ渡された携帯をハンズスは受け取った。
「しばらく旅行にでも出かけろ」
英雄の言葉にハンズスは眉を顰めた。
「なに?」
「何をやったか知らんが恨みを買ってる」
「暗殺指令でも出たのか?」
英雄の無言を、ハンズスは肯定と受け取った。
「お前が、俺を殺すのか?」
やや肩を落として、微笑むようにハンズスが言った。
「ああ」
英雄が無表情で答える。
ハンズスの唇が、しっかりとした笑みを作った。
「お前に俺は殺せないよ」
「馬鹿な」
「絶対だ」
確信に満ちたハンズスが歩き出す。
「これは持っていてくれ」
ハンズスは英雄とすれ違い様、携帯を英雄の手に押し付けた。反射的に受け取った英雄が、振り向く。
「借りは返した。次は撃つ」
構わない、の意味を込めてハンズスは手を振った。
英雄に向けた背のむこうでは、微笑んでいるようで泣きそうな、そんな顔をしていた。
今回の会食は海をイメージしたレストランよ、とマージから聞いた時からクレバスは楽しみにしていた。アレクとクレバス、ハンズスとマージ、アリソンで月に1度か2度食事をしている。そうしようと決めたわけではなくて、自然そうなっていることがクレバスには嬉しかった。店をチョイスするのは大抵マージで、時々クレバスやアレクが選ぶこともある。今回もまたマージが選んでくれた。
ビーチをイメージしたオープンカフェ。白い木製のテーブルに椅子。テーブルに備え付けられた鮮やかなブルーのパラソルに店名のロゴが白文字で入っている。プールサイドを思わせるその作りにクレバスは歓声を上げた
「わ、すごい。見ろよアリソン、ほら、パラソルの上に透明な貝がついてるぞ」
「かいー」
クレバスに高く抱き上げられたアリソンがオブジェに手を伸ばす。
「まあ、ダメよ。アリソン」
マージがゆったりと微笑んだ。
「食べられないデスヨ」
アレクがアリソンの手を止める。
アリソンが不満げに頬をふくらませた。
距離にして200メートルほど離れたビルで、英雄はライフルを構えた。スコープ越しに見える光景は、絵に描いたように幸せな家族だ。
現れたメンバーの中にクレバスを見つけた英雄は、一瞬ためらった。
…知り合いだったのか。
ためらって、それから、これはためらいではなく驚きなのだと自分に訂正する。
仕事に支障はない。
まるで、関係のない話だ。
スコープの中のハンズスが微笑んだ。
それを契機に、英雄が引き金を引く。
弾は、空気を引き裂きながら、駆けた。
アレクがそれに気づいたのは、彼がスナイパーであるが故かも知れなかった。
風景の中の違和感。
わずかに混じったその気配を感じ取った瞬間、アレクは動いた。
「ハンズス!」
叫びながらハンズスの両肩を掴み、押し倒す。
倒れる途中で左腕を弾丸が掠めた。アレクの服が裂け、血が霧散する。
アレクとハンズスはそのまま折り重なるようにして倒れこんだ。椅子が倒れ、テーブルがひっくり返る。パラソルが偶然にも英雄の視界を遮るような形で倒れた。
「アレク!?」
「マージも伏セテ!」
アリソンを抱いて立ち上がっていたマージが青ざめた。慌てて、2人に駆けよるようにパラソルの影に入る。弾道を読んだクレバスが、狙撃点であろうビルを睨んで走り出した。
「ハンズス、大丈夫?!」
「俺は大丈夫だ。アレクは…」
「たいしたことナイ、デス」
痛みに顔をしかめながらアレクが言う。出血を認めたハンズスが慌てて上半身を起こした。
「見せろ」
ジャケットを脱ぎながら、アレクの傷口を見る。マージがすかさずハンカチを差し出した。
「弾は貫通したな」
「心当たりハ?」
マージのハンカチで止血するハンズスの様子を見ながらアレクは聞いた。ハンズスの手が止まる。
一瞬英雄のことをよぎらせたハンズスは、傍にいるマージを気遣って平静を装った。
「…さあ。俺は元刑事だしな。どこから恨まれたのかさっぱりだ」
アレクがいぶかしむようにハンズスを見据える。焦らすような視線にハンズスは目を伏せた。
風が吹いたのを契機に、パラソルが揺れた。
同時にアレクがため息をつく。
「ワカリマシタ。次が来る前に帰ったほうが良さそうデス。…クレバス?」
アレクは周囲を見渡してクレバスがいないことに初めて気づいた。
「さっき、あのビルのほうへ…」
マージが狙撃点らしいビルを指差す。ハンズスとアレクが顔色を失った。
駆け出そうとするアレクの腕をハンズスが掴む。握り締めるその力の強さに、アレクは驚いた。
「ナンデス!?」
「俺が行く!」
ハンズスの剣幕に気圧されたアレクは、すぐに我を取り戻した。
「ダメデス!」
視線でハンズスの後ろにいるマージとアリソンの存在を訴える。ハンズスがわずかに歯噛みした。
「…だ…」
小さく漏れるハンズスの声をアレクは聞きとがめた。
「エ?」
ハンズスの瞳が揺れる。わななくように紡がれる言葉を、今度こそアレクは受け止めた。
「英雄なんだ…!」
ハンズスの叫びに、マージは思わずアリソンを抱きしめた。
クレバスは、狙撃地点とおぼしきビルに辿りついた。
非常階段を探して、響く足音に気づく。誰かが、階段から降りてきている。狙撃主だと直感した。
ともすれば神経質にも思えるその音が、地上に至る。鉄筋の階段からアスファルトに降り立った瞬間に靴音が変化した。その音の持ち主、後姿を見たクレバスの顔が歪んだ。一度信じられないと目を見張って、次にひどく納得して、次第にやるせない気持ちになる。漏れた声には悔しさが滲んでいた。
「なんで、お前がこんなところにいるんだよ…!」
クレバスの声に、英雄が振り向いた。サングラスで覆われた瞳が読めない。
その表情の変化のなさに、怒りが沸くのをクレバスは自覚した。
英雄が壊そうとしたのは、英雄が大切にしようとしていたものだ。
もう少しで、取り返しのつかないことになるところだった。
かつての英雄の笑顔がクレバスの脳裏をよぎる。クレバスは思わず目をそらした。
それが契機になったように、英雄が背を向ける。
「英雄!」
叫ぶクレバスの手に、鋼糸が煌いた。
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