DTH2 カサブランカ

 ハンズス達にそこに残るよう告げて、アレクはクレバスの元へと急いでいた。
 通行人の合間を縫うように駆けて行く。時折、アレクの腕に巻かれたハンカチや気配のものものしさに振り返る人間もいたが、気にしてはいられなかった。
 抜き去る人々の中にその姿を認めた瞬間、アレクは足を止めた。
 険しい視線で振り返ると共にバタフライナイフを抜く。己の耳のすぐ横にナイフを突き立てられても、セレンは微動だにしなかった。
「セレン…!」
 嫌悪感と怒りを混ぜたようなアレクの表情にセレンは微笑んだ。余裕たっぷりに壁にもたれて腕を組んだまま動こうとはしない。アレクの感情を表すかのように、ビルに突き立てられたナイフが小刻みに震える。
「久しぶりだな」
 悠長なその声にアレクの殺気が増した。敏感に察した鳥達が飛び立つ。
 セレンは、人の感情が剥き身になったその姿が好きだ。特に殺意が自分に向けられたとなれば、心地良い満足感が甘く胸を満たす。
 殺意をその命ごと手折るのはたやすいだろう。けれど。
 憎しみを絞り出すようなアレクの瞳をセレンは覗き込んだ。闇を飲むように黒い瞳が自分だけを映していることに満足する。
 一途な憎悪は、恋心に似ている。
「こんなところで立ち止まっていていいのか?」 
 セレンの言葉にアレクが反応した。ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた気がする。
 ビルの外壁を削りながら、力を込められたナイフがセレンの首筋に触れた。刃の先が憎しみで火照るようだ。
 瞳をあわせたまま、セレンもアレクも動かなかった。
 アレクにはわからなかった。今、この喉笛を掻き切ることは出来る。自分に明らかな殺意があるのがわかっているのに、なぜセレンは動かない。自分の命すらチップ代わりにするセレンの生き方は、アレクには到底理解しがたいものだった。
 
 緊張を断ち切ったのは、一発の銃声。
 
 遠く響いたそれに、アレクが咄嗟に反応する。
 ナイフを引き抜くとクレバスの元へと駆け出す。
 遠ざかるアレクの背中を、セレンはただ見送った。
 自分の首筋についたナイフの跡を、愛おしそうに撫でながら。



 子供の頃、英雄の傍にいて何度も思ったことがある。
 どうして、自分は子供なんだろう。
 体が大きかったら、力があったら、きっと、英雄の力になるのに。
 クレバスは回想した。
 そう、あの頃、とても力が欲しかった。
 二度とごめんだと思ったから、ダルジュやセレンに戦い方を教えて欲しいと願った。
 彼らは間違いなく自分を鍛えてくれて、自分はきっと強くなったのに。
「英雄…」
 クレバスの唇から力なく言葉が漏れた。
 抱きしめるような至近距離で、クレバスの胸に銃を押し当てる英雄の頬に触れる。弾を放ったばかりの銃口は、まだ熱を持っていた。
「オレ、まだ、足りなかったみたいだ…」
 意識を失ったクレバスの体を、英雄は黙って受け止めた。クレバスの体から引き抜いた銃を、懐にしまう。
 セレンを撃った時とは違い、英雄は明確に現状を把握していた。
 薬の選別を始めたせいだろうか、妙に頭が冴えている。
 腕の中にいるこの少年を殺すべきではないという、はっきりとした確信があった。だからこそ、初弾の空砲でクレバスを仕留めることにした。
 苦戦をしなかった。クレバスを縛る思い出が、その動きをにぶらせたせいもあるだろう。それを英雄は敏感に感じ取っていた。
 自分に遠慮をしていると。
「君を殺しはしない」
 ぽつりと、英雄の唇から言葉が漏れた。
 英雄がクレバスをそこに横たえた瞬間、アレクが路地裏に飛び込んだ。
「クレバス!」
 アレクの存在に気づいた英雄が、クレバスから飛びのくようにして距離をとる。
 二人は静かに向き合った。
 
「クレバス…」 
 横たわるクレバスを痛ましそうに見たアレクは、顔を上げて英雄を睨んだ。気配がセレンと対峙した時の険しさの余韻を引きずっている。英雄を責めるような、厳しい顔だった。
 英雄がサングラスの奥でアレクの瞳を受け止める。
「英雄…」
 アレクが英雄を見据えた。
 降り出した雨が身を濡らしていく。
「…私は…アナタが変わっていくのが嬉しカッタ…」
 思い出を絞り出すようにアレクは言った。
 初めて出逢った時、少年だった英雄の凍てつくような瞳を忘れるはずもない。やがて刑事に保護されたと聞いた。けれど変わらずに組織と関係を保ち続けた英雄が理解できなくて。
 それから、彼が子供を拾ったと耳にした。
 初めは信じられなくて、その姿を見てみようと近くの公園に出入りして、そこでクレバスと出会った。幼いクレバスの姿は、どこか郷里の弟達を思い起こさせた。
「知ってマスカ、英雄。この子は泣かなかったんデス…アナタが死んだあの日カラ、一度モ。また、アナタに会うマデハ」
 他人から始まった彼らの関係。
 利害関係以外の何者でもないのだとアレクは思っていた。
 それでも、郷里に帰ったアレクに英雄は助けを求めた。
『彼のために君の力が必要だ』
 助けて欲しい、と英雄が言ったのだ。ぎこちなく、それでもはっきりと。
『僕はクレバスを助けたい。今更、こんなことを言うのは卑怯だとわかってる。それでも…力を貸してくれ、アレク』
 受話器の向こうで、英雄が頭を下げているのだと容易に想像できる声だった。
 英雄が変わったのだとはっきり感じた。それがどうしてだか嬉しかった。
 この胸に満ちた感情を忘れることはないとアレクは思った。それが今、明確な影を落とす。目の前の英雄の姿が、アレクには悲しかった。
「かけがえのない、オンリーワン。クレバスにとってのアナタがソウデシタ。誰も代わりにはナレナイ」
 フェイクではない笑顔を手に入れた英雄。泣くことを覚えたクレバス。
 たどたどしく、それでも歩み寄った彼らをアレクは祝福した。
「アナタにとっても、キット」
 雨粒が英雄の頬を滑り落ちる。涙のようだとアレクは思った。
「…私は、クレバスを守ル。例えアナタに何がアッテモ」
 アレクが唇を噛み締めた。身構えたその手の内でナイフが光る。
 対峙する二人の間を埋めるように激しく雨が降り注いだ。
「ソレがアナタとの約束デス」
 アレクの声に、英雄の瞳がサングラスの奥で細められた。
 
第9話 END
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