DTH2 カサブランカ

第10話 「イタムココロ」

 あたたかみのある白の陶器の皿を洗い終えたシンヤは、タオルで手を拭いた。これでモーニング分の食器はカップも含めて全部洗い終わったはずだ。世話になったパン屋にイートフロアはなかったから、これはこれで新鮮な経験だった。接客も板についてきた気がする。ガイナスのような愛想笑いは出来ないけれど、自分なりに客と交流できるのは楽しかった。
「あー、なんなの、もう!」
 棚の整理をしていたガイナスが声を上げた。
「どうした?」
「小麦粉のストックが全然ないよ。明日の分仕入れないと」
「まあ、大変ですわね」
 シンヤの隣でフォークやナイフを拭いていたカトレシアが、のほほんとした感想を漏らした。きびきびからは程遠い仕草だが、それが鼻につくわけではない。合わせて自分もスローペースになってしまうのが、この人の力なんだろうとシンヤは思っていた。
「あ。そういえば私、小麦粉を見ましたわ」
 ぽん、と手を叩いてカトレシアは言った。ガイナスの傍に駆け寄って、適当に戸棚を開け始める。
 それを見たダルジュが、鉢を持ち上げかけていた手を滑らせた。わずかに鳴った鉢と水受け皿がかちあう音に、シンヤが顔を上げる。
 ダルジュの顔色が見る間に青ざめていく。
「おい…」
「あ、ありましたわ!」
 嬉々としたカトレシアが、透明のビニール袋に入った白い粉を取り出した。小麦粉に似ている気がするが、見慣れている者には即座に違いがわかった。
 至近距離でそれを見たガイナスが怪訝な顔をする。
「ねえ、これって…」
「馬鹿、こりゃ違う!」
 ダルジュが慌ててカトレシアの手から袋を取り上げた。カトレシアがゆっくりと、不思議そうにダルジュを見上げる。
「違いますの?」
「そうだ」
 見るな、と言わんばかりにダルジュは戸棚に袋を押し込めると、扉を閉じた。
「では、あれは?」
 閉じた扉をカトレシアが見やる。隠し場所を変えようとダルジュは決意した。
「何って見りゃわかんだろ、へ…」
 ヘロイン、と言いかけたダルジュはすんでのところで言葉を飲み込んだ。実はまだ、カトレシアにG&Gの副業を告げていない。
 G&Gの副業。
 副業と言うより、裏の顔と言った方がいいのか、セレンの人徳の賜物とでも言うのか。
 G&Gは、裏の世界での流通にも一役買う「荷物預かり所」としても名を馳せていた。闇の金や物資をロンダリングするための場所である。
「ダルジュさん?」
 極力、そう、極力…自分達の住む世界から遠ざけておきたいと願うのは、間違いではないだろう。けれどそれ故に直面した問題に、ダルジュは対処しあぐねていた。背筋を冷たい汗が流れる。
「”へ”んな味のする小麦粉だそうですよ」
 シンヤが涼しい声でフォローを入れた。
「まあ」
「痛んじゃったんだよね。処分待ち?」
 ガイナスが退屈そうにあくびをしながら言った。
「ああ、まあな」
 ダルジュが慎重に答える。
「ついでだから片付けましょう、ガイナス」
「は〜い」
 シンヤに声をかけられたガイナスが、手を伸ばして扉を開けた。
「おい!」
 慌てるダルジュに、ガイナスがほくそ笑む。
「な〜に?痛んだ小麦粉なんでショ?とっといてどうすんのさ〜」
 クソガキが!
 ダルジュのこめかみがひくりと動いた瞬間、かすかな銃声がカトレシアを除く3人の耳に届いた。
 一斉に外を見る3人に、カトレシアが首を傾げる。
「みなさん、どう…?」
 シンヤが無言で駆け出した。エプロンを店内に投げ捨て、外へと飛び出す。
「クソが!」
 ダルジュも駆け出す。後に続こうとしたガイナスに、「てめぇは残れ!」と叫び、残す。その声に足を止めたガイナスは、外に出るタイミングを逃した。
「あーもう、なんなの!?」
 ガイナスが苛立たしげに手にしていた『小麦粉』を、棚に投げ入れた。むくれたままそっぽを向いて、飛び出したダルジュの背を見つめるカトレシアの視線に気づく。
 誰かの表情を見て、目が離せないと思ったのは初めての経験だった。
 ぴんと伸ばしたままの背筋はゆらぎもしないのに、押せば倒れそうなもろさを感じた。普段のとぼけた表情も微笑みも消えて、カトレシアは、ただダルジュの背中を見ている。
 ガイナスは、毅然としたその顔の中に、寂しさを見つけた。



 シンヤは走り続けていた。
 降り出した雨に構うことなく、駆け続ける。濡れることさえ気にならなかった。
 銃声に駆け出すなんて、どうかしてる。
 まだ、自分が関わっていると決まったわけでもないのに。

 けれど、銃声を聞いた瞬間、英雄がよぎった。

 自分を呼んでいる―――――――――

 確信がアスファルトを押し出す力になった。推進力が加わった体がさらに加速する。
「待て!」
 後ろからダルジュの声がしても、シンヤは足を止めようとはしない。
「クソガキが!」
 吐き捨てたダルジュが加速した。
「待てっつってんだよ!」
 シンヤの肩を掴んで、勢いのまま壁に叩きつける。
 二人とも乱れた息のまま、その場に立ち尽くした。雨が全身を濡らしている。
 肩で息をしたまま、シンヤがダルジュを見上げた。凍てついたような瞳にダルジュが眉を顰める。冷たく色のない瞳の奥にかすかに見えたその影を、ダルジュはよく知っていた。

 憎悪だ。
 
「お前…」
 ダルジュが言葉をかけようとした瞬間、シンヤの瞳から影が潰えた。
 一瞬のことにダルジュは言葉を続け損ね、告げたのは別のことだった。
「…見ろ」
 声を潜めたダルジュが横に流した視線に合わせるように、シンヤがそちらを見た。

 雨に霞む視界に、アレクと対峙する英雄の姿が映っていた。
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