DTH2 カサブランカ

第11話 「巡る記憶」

 晴れ渡った空を映した川は、先ほどまで降り続いていた雨をふんだんに取り込んで流れていた。一見水面は穏やかだが、水中に身と投じればそこが急流であることが容易に知れるだろう。押し寄せる水流が、もがくことすら許さずに体を圧迫する。川が荒れる気配を察した魚達は、とうにどこかへ隠れていた。
 クレバスは、流れの先を見た。
 濁流が渦を巻く。
 先にはただ、暗闇が広がっていた。
 
 川の水面から突如として手が現れ、アスファルトで作られた土手を掴んだ。腕全体に力を込めて、体を引き上げる。
「ぷはっ」
 耐え切れないと言うように、川から上がった英雄が肺一杯に空気を吸い込んだ。
「はあ、はあ」
 肩で息をするなんて何年ぶりだろう。体が慣れない動作に悲鳴を上げている。
 自分の呼吸を静めながら、英雄は傍らに引き上げたクレバスを見た。
 着水の衝撃で気を失ったらしい。どうしてだか、その手を離せなかった。救わねばならないと、義務感と使命感が入り混じった感情が全身を満たす。今までに味わったことのない感覚だった。だが、不快ではない。
 意識のないクレバスの顔はまるで眠っているようだ。水気を十分に含んだ金髪が陽光をはじく。白い肌、瞼を閉じた顔はまだどこかあどけなさを残していた。
 ああ、子供だと英雄は思う。
 子供なんだ、まだ。自分は良く知ってる。
 そう思った瞬間に頭痛がした。記憶が渦巻くようにどこかへ収束していく。
「…う…!」
 英雄は思わず呻いて額を押さえた。
 この寝顔を知ってる。
 前もどこかで。
 いいや何度も。
 この顔を知ってる。
 知るわけがない。
 ああ、でもどこかで。
 違う、違う、もっと彼は幼くて…
 否定と肯定の声が己の内で交じり合う。重なり合い積み重なるように、時に怒号のように。
 過去が重なる。
 初めて、本当に初めてクレバスと出逢った時、英雄はクレバスを抱えてこの川に飛び込んでいた。
 やはり気を失ったクレバスを自宅に連れ帰り、そこから全ては始まったことを今の英雄が知るはずもない。
「あ…あ…」
 内側を撫でるような記憶の感触に、英雄は知らずに自分を抱いた。声が漏れる。
『お前が嫌がってもそばにいる』
『私、聞いてる…だから、何か言ってよ!』
『あんたになんか助けられたくない』
『お前にとって…俺達ってなんだ…?』
 責める言葉、癒す言葉、どれにも覚えがある。いいや何一つ関係はない。
 混沌とする意識の中で、抜け出たように綺麗に響く思い出。
 たったひとつだけ、どこまでも鮮やかに。

『英雄』

 優しい声だ。子供の。これは誰だ?
 手が差し伸べられる。小さな手。でもそれが全てだった。

『帰ろう、オレ達の家に』

 そう言って僕を許して笑う君を知ってる。
 知ってる。
 君は…

 ダレダ。

 濁流のように押し寄せた記憶の洪水に英雄は飲まれそうだった。もう自分がどこにいるのかすら定かではない。
 かつていた場所、今いる場所が明らかに矛盾する。
 友がいた。大切な人も。僕はどうした?手放したのか?
 だってあの時は。
 あの時は、そうするしか―――――――――――――――

「英雄?」

 声がした。
 己の内の喧騒がぴたりと止む。
 目の前の覆っていた黒雲が突然途切れたように、景色が色鮮やかに英雄に飛び込んできた。
 自分を心配そうに見つめる少年が、かつての面影と完全に重なる。

「…クレバス…?」


 幾度となく呟いたその言葉が、今ようやく意味を成した。


 英雄の変化を、クレバスは敏感に感じ取った。
 家に来た時と比較にならないくらい、雰囲気が丸い。
 戻った…?
 動悸が早まるのをクレバスは実感した。一度、英雄は記憶が戻ったフリをしている。そのせいで、クレバスは手放しに喜べなかった。警戒を解けない。そんな自分が嫌だった。
 クレバスは、自分を見つめる英雄から視線をそらして、英雄のシャツの袖が赤く染まっていることに気づいた。
「英雄、ケガ…!」
 思わず英雄の腕を掴む。左上腕部から出血している。先刻シンヤに撃たれた時だとクレバスは思った。破れていたシャツの付け根をもう少し破いて、傷口を見る。弾は、掠めただけで肉を抉っているようだった。ハンカチを取り出そうとするクレバスを、英雄はただ見つめていた。
 視線に気づいたクレバスが顔を上げる。
 英雄は、泣きそうな顔をしていた。
「もっと、よく見せて」
 言いながら、英雄の手がクレバスの頬を包むように触れた。こわごわと、壊れ物を扱うように、そっと。
「大きく、なったね」
 微笑んだ英雄の瞳に涙が滲む。
 英雄の表情に、手のあたたかさに、優しい声に、クレバスの心が震えた。
 きっと自分も同じような顔をしているのだ。
「当たり前だろ。何年たったと思ってるんだ?」
 涙を拳でぬぐいながら、クレバスは言った。
「何年?」
 ぴくりと英雄の指が動いた。
 しげしげとクレバスを眺めて、考え込むように唇に手をやった。
「何年、たってる…?」
「英雄?」
 おかしいな、と言いながら英雄は首を振った。
「まだ思い出しきってないみたいだ。君が、もっと小さかった時の記憶までしかない。ほら、このくらいだった時の」
 英雄が座り込んだまま腕を伸ばして、自分の頭より少し高いくらいの位置を示した。
 5年前の、クレバスの身長。
「その後がないんだ…。君とのこともひどく断片的だし。どうしてかな」
 英雄が小首を傾げた。
 クレバスは、血の気が引いていくのを感じた。
 
 英雄は、自分が死んだことに気づいていない…?

 クレバスの喉が急速に乾いていった。
 空白の5年間は、眠っていた時のものだ。
 思い出すわけがない。そもそもそこに記憶などないのだから。
 
 知ったら、英雄はどうなるんだろう…?

『あの子が誰の屍の上に立とうと知ったことか』

『誓うよ。もう誰も殺さない。僕が、僕であるために』

 自分の意思でなく、望まぬ生を与えられたのだと知ったら…?

 耐えられない。自分なら。
 クレバスは、唇を噛み締めた。

「そもそも、僕はどうして記憶を…」
「英雄!」
 クレバスが叫ぶ。
 驚いた英雄は、思考を中断した。
「そんなの、どうだっていいじゃないか」
 クレバスは英雄の両肩を掴んだ。必死に食い下がるクレバスに、英雄が怪訝な顔をする。
「よくはないだろう?」
「いいんだよ!」
「そう、どうでもいいな」
 聞きなれたその声に、二人は顔を上げた。アスファルトで作られた土手、通りへと上がるための階段の中ほどに、見慣れた人影が立っている。すらりとした長身、陽光に反射する銀色の髪。
「セレン」
 英雄が呟いた。身構えようとするクレバスを、手で制する。クレバスが見た英雄は、無表情に近かった。
 オーバーラップ型は現在の記憶も別で持っている。英雄は、現在の自分が置かれた状況を、正確ではないにしろ把握していた。
 小さかったクレバスと共に過ごした記憶から、次にある記憶は真っ白な部屋で目覚めた時へと飛んでいる。医師達に混じって、セレンがいた。それから、英雄はセレンと共に過ごしている。
 失った記憶にセレンが関係しているのだと、英雄は確信した。
「見事に流されたものだな。帰るぞ、英雄」
 そう言ったセレンが、背を向け階段を登り始める。
 英雄が、立ち上がった。
「英雄!?」
 抗議するようなクレバスの声に振り向いた英雄は、黙って人差し指を唇に当てた。
「大丈夫。ちょっと探ってくるだけだから」
 帰ってくるよ、と英雄は言った。
 そのままセレンの後を追う。
「嘘だ」
 クレバスは呻いた。
 英雄が階段を登っていく。足音が遠ざかる。
「嘘だ、絶対、嘘だ…!」
 腕が、足が動かない。追わなければならないのに。
『帰ってくるよ』
 そんなことを、まるで約束のように言うから、ただそれだけでクレバスはもう動けなかった。
「英雄…!」

 クレバスの声に、英雄が振り向くことはなかった。
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