DTH2 カサブランカ
催眠は、とても簡単なものだった。
シンヤが容易にかかったのは、子供であるせいもあったかもしれない。
「簡単にかかっちゃうなんて、つまんないなぁ」
ガイナスはぼやいた。催眠状態で反応のとぼしいシンヤの額に指を当てる。
覗き込んだ瞳に、光の一片もないことを確認して微笑んだ。
「さあ…行っておいで」
ガイナスが囁いた。
ナイフをシンヤに手渡す。
光のない瞳のまま、シンヤはそれを受け取った。
シンヤを送り出したガイナスは、退屈そうにポテトチップの袋を開けた。
モニターに映る、由希子の部屋。由希子は何を考えているのか、部屋の片隅に置かれた簡易ベッドに腰掛けていた。
「もうすぐ、会えるよ。よかったね」
ガイナスは、由希子に語りかけた。
扉が開いたことを空気の流れが告げる。
由希子は顔を上げた。
扉はわずかに開いているが、それ以上動こうとはしない。
「ガイナス君…?」
由希子が不安げに声をかけたのを機に、扉が開いて、ゆっくりとシンヤが姿を現した。
「伸也…!」
息子の姿を認めた由希子は、駆け寄った。
あちこちに痣の出来たシンヤの頬に両手で触れる。
「伸也、伸也、ああ、こんなに怪我をして」
かわいそうに、と呟いた由希子は伸也の異変に気づいた。
由希子を見上げる顔に表情がない。
無機質な瞳はただ無感動に自分を映していた。
「伸也…?」
シンヤは表情を動かさないまま、ナイフを握った手をただ突き出した。
「…し…」
胸が熱い、と由希子は思った。見れば、自分の胸にナイフが埋まっている。柄を握る小さな手は、自分の息子のものだった。熱い塊がこみ上げてくる感触に、由希子は吐血した。血が、シンヤの顔にかかる。シンヤは瞬きもしなかった。
「伸也」
由希子は、シンヤの頬を撫でた。よく笑ったあの子の表情が消えている。それがたまらなく悲しかった。
「伸也…」
微笑む唇から力が抜ける。それでも、由希子は微笑んだ。
「おかえりなさい…」
目の前で崩れ落ちる由希子を映したシンヤの瞳が揺らいだ。奥に消えていた光が、急速に戻り始める。
「母さん…?」
「馬鹿」
呟いたガイナスがポテトチップを口に放った。
武器を持たないなんて言って、あっさりと殺してるじゃないか。
自分で大事だと言ったくせに。
「母さん、母さん!」
シンヤは由希子の体を揺すった。由希子はぐったりと動かなかった。床に広がる血の赤が、ひどく生々しい。
「母さん!」
シンヤの瞳に涙が溢れた。声が震える。
もう死んでる。嘘だ、死んでなんかいない。
せめぎあう心の声がシンヤの動揺を加速させた。
『君が彼女を守るんだ』
父親亡き後、自分を慈しんでくれた母に甘えてばかりだった。これからは自分が守ると、そう誓って。
「嘘だ!嘘だ、母さん…!」
なおも由希子の体にすがっていたシンヤは、母親の胸に埋まったナイフを凝視した。
おぼろげな記憶が、ある。
あれを渡された。
こわごわと、由希子の体から手を離す。
シンヤは自分の手を凝視した。指先が震える。
感触が残っている。
刺したのは、自分だ…!
シンヤは声の限りに叫んだ。体を突き抜けるような慟哭が、この身を焼けばいいと願った。
溢れる涙が枯れるまで、シンヤはただ泣き叫び続けた。
「あははははは!」
モニターを眺めていたガイナスは腹を抱えて笑い出した。
「バッカじゃないの!?かっこつけたりするからだよ。なにが武器は持たないだよ!ちゃっかり殺しちゃってさ、馬鹿みたい!どこが大事なのさ!?」
泣き叫ぶシンヤを映し出すモニターを見ながらガイナスは笑い続けた。
由希子の亡骸にすがって叫ぶシンヤの表情に見覚えがある。
自分、だ。
セレンと隔離され、それでも一方的にセレンの様子を見続けた。モニター越しに、あるいはマジックミラーを通じて。セレンはまるで自分のことなど覚えていないように、一度も自分を顧みたことはない。
ガイナスの代わりにセレンの傍にいたのは、英雄でありダルジュだった。
「どうして…!」
モニターの向こうでシンヤが叫ぶ。
その叫び声にすら覚えがあった。
笑い続けられない。ガイナスは唇を噛み締めた。
『無理をしなくて、いいのよ』
あたたかかった由希子の手が、今また自分の頭を撫でているようだ。
「バッカじゃないの…」
椅子の上でガイナスは膝を抱いた。静かに零れ始めた涙は、シンヤの慟哭が止むまで止まることはなかった。
由希子の亡骸を抱いたままのシンヤは、自分に歩み寄る気配に顔を上げた。
ガイナスが目の前に立っている。泣いたのか、目が赤い。きっと自分も同じような顔をしているのだろう。しかしそんなことを考慮している余裕はなかった。
一晩中自問自答した。なぜ、こんなことになったのか。
答えは、今までに何度も与えられていた。
『霧生英雄のせいだ』
シンヤの理性の部分が必死に否定し続けた答え。その是非を問うても、由希子は答えなかった。
もう動かない母親。
それが全ての答えのような気がした。
「人の殺し方を、教えてくれ」
叫びすぎてかすれた声で、シンヤは言った。
「全部アイツのせいなんだろう…?」
泣き腫らした目で、ガイナスはシンヤを見た。
黒く塗りつぶされた絶望の瞳。そこに一片の光もない。
知っている。
光は、自分が摘んだのだ。
あの時の胸の痛みに似ているとガイナスは思った。
シンヤは英雄を恨んでいたけれど、本当に憎まれるべきは自分だ。
『きっとシンヤは僕が嫌いだよ…だって、僕が…!』
『だから君らは傍にいなきゃダメだ』
英雄の言葉を思い出すたびに、ちくりと胸が痛む。
「言い訳のひとつもしないで…だから僕はあんたが嫌いなんだよ」
ガイナスはぼそりと英雄への呪詛を吐いた。
ガイナスの閉めた扉を見やったシンヤは、手渡されたマグカップに目線を落とした。中のココアがほかほかと湯気を立てる。一口飲むと、ぬくもりが体中に染み渡っていった。
「あたたかい…」
思わず声が漏れる。
シンヤは、知らず微笑んでいた。
第12話 END
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