DTH2 カサブランカ
自分の情けなさをここまで呪ったことはないとクレバスは思った。
「風邪だな。雨に打たれて川に飛び込んだんだろう?」
クレバスが差し出した体温計を見たハンズスが言う。
「肋骨も折れてはいないけど、あまり痛むようなら無理をしないほうがいい。折角の機会だから、しばらく休んだらどうだ?」
「学校を?店を?」
ぼんやりした頭でクレバスが聞く。
「両方デス」
アレクが呆れたように言うのをハンズスの肩越しに見た。シャワーから出た途端、熱っぽい顔に驚いたアレクにベッドに押し込まれ、そのままさっさとハンズスに診断されて、立派な病人の出来上がり。アレクの作ってくれた氷枕は少し硬いが、その冷たさが心地良かった。
「…情けな。丈夫さだけが取り柄だったのに」
クレバスが呻いた。声を出すだけで、喉が熱を持っているのがわかる。
「そんなことナイデス」
言ったアレクがクレバスの額に触れる。おやすみなさいと呟いて、部屋の電気が消された。
アレクだって怪我をしているのに。
起き上がろうとしても、ベッドに横になった瞬間に体の力が抜け切ってしまった。重く沈みこむようなだるさにまるで動けない。
熱に浮かれた瞳で、クレバスは天井を見た。
考えなければいけないことはたくさんあるのに、思い浮かべることさえ出来なかった。
「え、クレバス寝てんの!?」
思わず声を上げたガイナスが口を押さえる。シンヤが目線で非難した。
「ええ、熱を出してシマッテ」
玄関で二人を迎えたアレクが申し訳なさそうに告げた。
「どうするぅ?」
ガイナスに尋ねられたシンヤは、クレバスの部屋を見上げた。ためらうように、アレクを見て、「出来れば、顔を見るだけでも…」と消え入りそうな声で告げる。
シンヤの葛藤を察したアレクは、にこりと微笑んだ。
「いいデスヨ、ドウゾ」
そう言って、家の中に入るよう身で促した。
「紅茶デモ入れましょうカ?」
「いえ、おかまいなく」
「あ、僕オレンジペコがいい!」
「ガイナス」
抗議するようなシンヤの声にガイナスは舌を出した。
「僕、別にあいつに会わなくったっていいもん。アレク怪我してるんでしょ?ちゃんと自分で入れるよ。アレクの分もね」
シンヤの分は入れてやらない、と言い捨ててガイナスは台所へと向かった。取り残されたような顔をしたシンヤは、アレクを見た。人の良さそうな笑みをたたえたままガイナスを見送る横顔には、疲労の色が滲んでいる。
「すいませんでした」
ぽつりと呟かれたシンヤの言葉に、アレクはシンヤを見た。
「シンヤ?」
「俺、もう少しでアイツを撃つところだった…」
押し寄せる感情のままに、きつく拳を握り締める。俯くシンヤにアレクは微笑みかけた。
「クレバスに会ってきなサイ。2階の右の部屋デス」
アレクの言葉に背を押されるように、シンヤは階段を登り始めた。思えば、この家に入るのは初めてだ。階段のわずかな軋みが、そこに降り積もった思い出を語るようだ。家のそこここにぬくもりを感じる。シンヤは足を止めた。知っている。この空気。還るべき我が家、今は失われたシンヤの家族と共に過ごした家も、こんな空気を持っていた。
思い出が肩に手をかける前に、シンヤは歩き出した。
クレバスの部屋に電気はついていなかった。通りから入る街灯の光や、車のヘッドライトが通り過ぎるように室内を照らす。シンヤは、電灯を点けようとしてクレバスが寝ていることを思い出し手を引っ込めた。そのまま薄明かりを頼りに、クレバスの寝ているベッドへと足を進める。
薬を飲んだらしいクレバスは眠っていた。
子供のようなその寝顔、無事な姿を確認したシンヤの唇からため息が漏れる。
安堵した瞬間、全身からどっと疲労感が押し寄せた。思わずその場に座り込む。
膝についた手で額を押さえる。また、ため息が漏れた。
「ん…」
人の気配に気づいたクレバスが、頭を動かした。はずみで、クレバスの額に乗せていたタオルが落ちる。シンヤは落ちたタオルを手に取った。クレバスの熱を吸ったのか、タオルが熱い。枕もとに水を張った洗面器を見つけると、そこにタオルをひたした。絞ればしたたる水滴で、クレバスが起きるのではと心配しながら。
クレバスは起きなかった。シンヤがそのタオルを再び額に乗せるまでは。
冷たさに眉をしかめる。うっすらと瞼が開くのを、シンヤは見た。
「起こしたか、すまない」
小声で詫びる。クレバスはぼうっとした瞳でシンヤを見た。熱のせいか、視線が定まらない。
傍にいる人間の輪郭がぼやける。それでもそこにいるのが誰だか、クレバスにはわかった。
「英雄…」
嬉しそうに笑うクレバスに、シンヤは硬直した。
見間違えている、そう言おうとして、自分の手を掴んだクレバスの手の熱さに言葉を飲み込む。
熱い。
「よかった…」
呟いたクレバスが再び眠りに落ちた。
シンヤの手を握ったまま。
シンヤはしばらく動かなかった。否、動けなかった。
やがてあきらめたように嘆息して、ベッドに背を向けたまま座り込む。
時折過ぎる車のヘッドライトが、繋いだままの手を映し出していた。
「痛っ」
剃刀を滑らして頬を切った英雄は、顔をしかめた。唇のすぐ横で刃を滑らせてしまった。
「うわ、やっちゃったな」
水が流れる洗面台に、血が落ちる。慌ててタオルで頬を押さえた。
流れる水の透明さ、
そこに混じる血の赤さ、
頬に当たるタオルの感触、
見覚えがある。この感覚。
英雄の顔から笑みが消える。鏡に映る自分の姿にさえ覚えがあった。
『英雄?』
『大丈夫、なんでもないよ』
血が流しに吸い込まれる。
タオルで口元を隠した。
僕は、病気だったから。まだ君に知られたくはないと、そう思って。
ドクン。
動悸が早まる。押し寄せた過去が、そこに口を開いていた。
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