DTH2 カサブランカ

 …病…?

 英雄は回想した。
 鏡の中の自分に問いかけるように、凝視する。

 そうだ、自分は死ぬはずだった。
 いいや、死んだ…?
 なら、なぜ生きている。

「…ひ…」

 漏れそうになる悲鳴を英雄はどうにか飲み込んだ。
 なぜ自分は生きている?
 体中を駆ける血がぞっと冷えていくような感覚に、英雄は腕をさすった。知らず歯が鳴る。たどり着こうとしている答えが恐ろしい。本能が考えるなと警告した。

『もう、お前を助けられない…』

 ハンズスがそう言って俯いた。忘れるわけがない。気にしないでくれと、そう告げた。
 僕の選んだ道だから。
 マージも手放した

『僕は死ぬ。その覚悟をして欲しい』

 そう言った時のあの子の顔を覚えてる。とことんまで傷つけた。
 そしてあの子の声に抱かれて、僕は死んだ…

 連鎖的に思い出し始めた英雄の脳裏に、最後の記憶が蘇った。

 もう自分が暗闇に包まれ始めて、二度と目覚めることのない眠りにつこうとした頃、誰かが頬に触れた。
 長い指、穏やかで孤独の滲んだ声。


『私はまだ、お前を手放すつもりはない―――――――』


 セレンが。


「ああああああああああああああ!」
 全てのピースが繋がった瞬間、英雄は絶叫していた。






 何度目かの嘔吐は、もう胃液も出なかった。
 それでも我が身のおぞましさに、吐き気と涙が止まらない。まるで内臓が自分を拒絶しているようだと英雄は思った。流しっぱなしの洗面台の水をぼんやり眺めながら、英雄は考えた。
 拒絶。それはそうだ。いったいいくつ取り替えたのかわからない、他人の身の詰まった自分の体。きっと元からの自分の部分は数えたほうが早いに違いない。
 こんな時だというのに唇から笑みが漏れる。自嘲、まさにそれだった。
 死にたいと、心から願ったことがある。
 一度目は養父をこの手にかけた時、二度目はクレバスとの約束を果たせなかった時。そのどちらも果たせずに、生きていた。そして自分が初めて生きたいと心から願った時には、病が命を摘んでいった。
 生きたかった、生きたかった、生きたかった。
 誰が望んで手離すものか。
「…それでも…」
 英雄は呻いた。
「僕は受け入れた!覚悟したんだ!」
 叫んで洗面台を叩く。崩れ落ちるように、ずりおちた。天井を仰いで、洗面台にもたれるように座る。
 なりふり構わず裏から手を回せばどうにかなることは知っていた。でもそうはしまいと英雄は思っていた。思うまでが、とても長かった。引きずる未練を片っ端から断ち切る。その道程の長いこと。支えがなければ歩いていけなかった。
『もう誰も殺さない。僕が僕であるために』
 自分であの子に誓ったことだ。守らなくてどうする。
「…なのに…」
 なぜ今自分は息をしている。
 考えたくない、思考を放棄したい、なぜ今狂わない。
 英雄はクレバスのことを考えた。否、考えたわけではなく、かつてそうだったように自然と思いを馳せていた。
 会いたい。
 息をしている、ただ、それだけで欲が芽生える。
 人の強欲さを呪いながら、英雄は涙した。

 今はただ、何も考えずに君に会いたい――――――――。



 陽が暮れ、朝が来ても英雄はその場から動けなかった。
 ショックが大きすぎて動く気になれない。
 流しっぱなしの水の音だけが、かろうじて時が流れていることを告げる。呆然とする英雄の視界の片隅に、すらりと伸びた足が映りこんだ。
 世界に違和感を見つけた英雄がぼんやりと視線を寄せる。セレンが、そこに立っていた。
「セレン…」
 呟いた英雄の気配から、セレンは英雄に何が起きたのかを悟った。
「その様子では薬も飲んでいなそうだな。ひどい有様だ」
 出しっぱなしの水道を止めると、セレンは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。コップに注いで英雄の横に置く。ついでに屈んで、いくつかの錠剤を英雄の手に握らせた。
「これは飲め。お前の体に必要だ」
「…嫌だ」
 英雄は拒絶した。嫌悪感がひどすぎて、口を開くだけで吐きそうだ。
「命を無駄にするのか?」
 その言葉に、英雄が顔を上げた。鋭い視線でセレンを射抜く。
「セレン…!」
 嫌悪感を滲ませて、英雄が唸った。正面から受け止めたセレンが、優雅に微笑む。
「お前が命を手放すなら、無駄死にだな。お前の中にいるそいつらも」
 瞬間英雄の瞳に宿った憤怒と憎悪を、セレンは歓迎した。瞳に映る意思のなんと美しいこと。
「だから私は」
 そこで言葉を区切ってセレンは立ち上がった。
 焼き付けるような英雄の視線を背に受けたまま、部屋を後にする。
 そして二度と、セレンがそこに戻ることはなかった。


 だから私は、お前が好きだよ。
 生きようと醜くもがく、その姿が。


 セレンの声が、英雄の内に木霊した。


第13話 END


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