DTH2 カサブランカ

第14話 「迷い子達」

 カプセルを口内に押し込むと、ねとついた粘膜に捕まってもう飲み込めない。
 英雄はカップを手にした。水を、飲めばいいとはわかっているのだけれど。
 飲み込めない。
 口に含んで喉の筋肉が収縮した瞬間、力の作用が逆転する。
 反射的に嘔吐して、英雄は洗面台から顔を上げた。鏡に映る自分の姿は、どこまでも滑稽だ。
 もう何度繰り返したのかわからない。
 セレンが残した薬を包んでいたシートばかりが辺りに散らばって、一度も飲めた試しは無かった。
 なにかを飲み下す行為は食べることに通じる。
 食べることは、生きることだ。
 臓器に意思はない。それでも、英雄はそこに確固たる意思を感じ取った。
「僕を許さない、か」
 あきらめたように呟く。
 己の内にあって、己を否定するその行為はどこまでも辛辣に英雄を責めた。
 英雄はもう一度鏡を見た。
 己の姿が、成長したシンヤに重なる。いつの間にか大きくなっていた、自分が守りきれなかった少年。あるいは出会いのタイミングが違えば、彼を守れたのかも知れなかった。
『お前は生きているだけで、誰かを傷つける…!』
 シンヤの言葉が蘇る。英雄は反射的に鏡を殴りつけた。割れた鏡の破片が飛び散る。切った拳から滴り落ちた血は、赤かった。
「ああ、そうだ。君は正しい」
 英雄は呻いた。食いしばった歯の間から嗚咽が漏れる。
「どこまでも正しい…!」
 血が流れる、涙も流れる。
 この身を裂くような慟哭すらも、うとましいほどに生きている証だった。




 目に入る光の眩しさにクレバスは目を覚ました。熱が下がったせいか、体が軽い。ベッドに半身を起こし、ほっと一息ついて、クレバスは視界に違和感を感じた。
 こわごわと視線を移動させて、違和感の正体に気づく。
 ベッドの片隅に映る、黒い頭。
 見れば、シンヤがベッドに背を預けて腕を組み、静かに寝息を立てている。その足の先には、毛布に包まったガイナスがやはり眠っていた。
「…え…?」
 現状を理解しきれないクレバスの呟きに、シンヤが瞼を上げた。
「起きたか」
「ちょ、これ、どういう…」
 小声で問いただすクレバスの顔面を、クッションが直撃する。驚いたシンヤが振り返ると、ガイナスが投球姿勢を保ったまま怒りを露にしていた。
「どういうもなにも…」
 逆毛だった猫を思わせるガイナスの口をシンヤが塞ぐ。詫びに来たのに恩を売っては本末転倒だ。
 昨夜、クレバスに手をつながれたままのシンヤはその場を動けなかった。様子を見に来たガイナスはそれを見て怒り、「お前は帰っていいぞ」とシンヤが言えばさらに怒り、結局この部屋に毛布を引っ張り込んで眠り始めた。「はい」 差し出されたガイナスの手を不審そうに見つめたシンヤに「もう片方、余ってるでしょ。だから、はい」 と半ば強制のように手を繋がせて。
 ああ、だからか。道理で手が痛い…とシンヤは妙に納得した。夜中に、自然と離れてしまったとはいえ、筋肉の緊張がほぐれきっていないのだ。
「なんだってんだよ!」
 クッションを除けたクレバスが抗議した。シンヤを挟むようにいがみ合う二人を見て、シンヤが懊悩深くため息をつく。と、ドアがノックされた音に三人はそちらを向いた。
 そこに、ドアを開けたアレクが立っていた。初めからいたのだろう、アレクは2、3度手首を折り曲げてノックの仕草をして見せた。気づかせるために叩いたらしい。
「おはようゴザイマス」
「おはよう、アレク」
 クレバスがベッドから飛び降りてアレクに駆け寄った。その顔を覗き込んだアレクが、クレバスの額に手を当てる。
「熱ハ?」
「下がったみたい。アレクは?」
「大したことナイデス」
 にこりと笑うアレクに、クレバスは自分が朝食を作ると告げて階段を駆け下りていった。その後姿を見送ったアレクが、シンヤとガイナスに向き直る。
「だ、そうデスヨ。ご飯にシマショウ」
「なんだ、しっかり家族してんじゃん」
 ガイナスがからかうと、アレクは曖昧に微笑んだ。

「朝食って、ナニコレ。店のパンじゃん。手抜き〜」
 テーブルを一瞥したガイナスが文句をつけた。テーブルの中央にあるバケットに積まれているのは、ガイナスお得意の「ブタパン」だった。「店の余りだよ。昨日、調子こいて焼きまくったのは誰だ」
 文句をつけられたクレバスがフライパンを手にしたまま、ターナーでガイナスを指した。指されたガイナスには心当たりがあった。確かに昨日、皆が出払った店内を好き勝手に使ったのだ。
「だって〜、皆僕を置いてくしさ。暇じゃん」
「結局飛び出したって聞いたぞ」
 ガイナスは答えずにむくれた。戻りの遅いシンヤを心配したのだとは、本人の前で言えるわけがない。
「食ってやるんだからありがたく思えよ」
 勝ち誇ったクレバスが、目玉焼きを皿に放り込む。ガイナスは八つ当たりするように、黄身にフォークを突き立てた。刺さるような視線で、シンヤが睨んでいるのがわかる。
 ガイナスはむくれながら、ケチャップに手を伸ばした。食べれば文句無いだろうとの意思表示だ。
「クレバスは今日一日安静にしまショウネ」
 やりとりを見ていたアレクが腰掛けながらクレバスに声をかけた。言われたクレバスがぎょっとする。
「え、でもオレもう大丈夫だし」
「クレバス」
 諫めるようなアレクの言い方に、クレバスは怯んだ。確かに、今回はアレクに心配をかけすぎたかも知れない。
「…わかったよ」
 しぶしぶと承諾するクレバスに、アレクは満面の笑みを見せた。照れたようにクレバスが視線をそらす。その先には、携帯電話があった。

 どうせだから店まで一緒に行けばいいと、アレクとシンヤ達は連れ立って家を出た。朝の空気は凛として澄んでいる。まだ人気もまばらな通りを三人が歩いていった。
「お邪魔してしまってすみませんでした」
「オカマイナク」
 詫びるシンヤにアレクが笑って答える。ガイナスが不満げに唇を尖らせた。
「なんでシンヤが謝るのさ。クレバスのせいでしょ?」
「なんでお前が怒るんだ」
「マアマア」
 睨みあい、衝突寸前の二人をアレクが宥めた。
「いいデスネ、パートナー。ダルジュに英雄、シンヤにガイナス」
 どこか二人を眩しそうに見て、それからアレクは足を止めた。
 気づいた二人が振り返る。
 アレクはいつもの微笑のままだった。
「アレクさん?」
「二人にお願いがアリマス」
 アレクの言葉は穏やかだが、断らせない強さも持っていた。
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