DTH2 カサブランカ

 アイスティーに入れられた氷が、バランスを崩す。グラスが響かせる独特の音に促されるように、セレンは口を開いた。
「アールグレイだ。癖もなく飲みやすいぞ」
 対面に座る相手にそう促す。しかし、アイスティーに手がつけられることはなかった。水滴を纏ったグラスを哀れむように見たセレンが嘆息する。
「前に、ガイナスが言っていたよ。こういう状況で会うこと自体、神経が太いそうだ。お前もそうだな、クレバス」
「多分ね」
 セレンの対面に座ったクレバスも、ため息を漏らした。セレンに連絡を取ったのは自分だ。もしかしたら番号を変えていないかもしれないと、セレンにコールすると、果たして電話は繋がった。アレクは怒るに決まってる。けれど他にクレバスが英雄に辿りつく手段など思い浮かばなかった。かつてないほどに激怒するアレクを想像しながら、半ば自棄になりつつ、クレバスは目の前のグラスに手を伸ばした。ひやりと冷たい液体が喉に流れ込む。それを飲み込むことで、ようやく人心地ついた気がした。
 セレンが指定した店は、メインの通りから奥に一本入ったビルの地下にある看板も無い店だった。そこに店があると知っていなければ、地下に至る階段すら見過ごしたに違いない。コンクリートむき出しの階段を下り、煤けた扉を開いた先は、まるで別世界のように綺麗な店内だった。真っ白な壁に赤・青・黄の色鮮やかなパネルがはめ込まれている。店内の色彩は唯一それだけで、他はテーブルも椅子も、食器に至るまでが白で統一されていた。人と料理が映えるよう考慮されているのだとセレンが注釈を加える。「ここは穴場でね」との言葉に、クレバスは素直に頷いた。
「で、私に何の用だ」
「英雄の居場所が知りたいんだ」
「ほう」 興味深げにセレンが頷いた。
「自分で帰る、とは言ってたけど。でも」
 クレバスはそこで言葉を切った。目の前のグラスに視線を落とす。
「心配なんだ」
 自分が一度死んだ身だと気づいたら、英雄がどうするのか。何度考えてもクレバスに答えは出なかった。そのまま思い出さなければいいと、ひたすら願うしかない。
「あの子は果報者だな」
「セレンもだよ」
 迷わず切り返された言葉に、らしくなくセレンは絶句した。
 クレバスがまっすぐにセレンを見たまま、口を開く。視線が自分を射るようだと、セレンは思った。
「セレンのことも、心配だ」
「光栄だね」 
 セレンが肩をすくめる。
 それを見たクレバスが、微笑んだ。
「…本当だよ」
 穏やかに告げるその声に嘘はないだろう。セレンは自分のグラスに視線を落とした。アイスティーに浮かんでいるミントの葉がやけに鮮やかだ。
「私はお前が激怒していると聞いたがね」
 セレンの言葉にクレバスは小首をかしげた。巡らせる思考に合わせて視線を彷徨わせる。
「うーん、怒ってたっていうか、ショックっていうか。なんで一言も言ってくれなかったんだろうとかは考えたけど」
「結論は?」
「セレンらしい」
 そうか、とセレンは頷いた。
「これから、どうするの?」
「用件は英雄の居場所じゃなかったのか」
 セレンの返答にクレバスは苦笑した。人懐っこい笑顔でセレンに話しかける。
「セレンてさ、ホントにアレだよね」
「どれだ」
「自分が中心にいなきゃダメなのに、いざ中心におかれると逃げるっていうか」
 クレバスの言葉にセレンは目を丸くした。
「そう言われるのは初めてだな」
「怒った?」
「いいや」
 セレンはグラスを手にした。アイスティーを飲みながら、もしや自分は動揺しているのかと考えた。その想像が可笑しくて思わず苦笑する。存外自分は小心者かもしれないと皮肉りながら。
「お前には私がそう見えるわけだな、面白い」
 くく、と喉を鳴らしたセレンが背をそらしながら膝を組んだ。身を前に乗り出すように、テーブルに肘を突く。組まれた指に顎を乗せた。
「英雄の居場所は、…そうだな。ダルジュも知っている私の拠点のひとつ、と言えばわかるだろう」
「ダルジュが?」
「ああ、何度か連れて行ったこともある。だが、今は行かないほうがいいだろうな」
 なぜ、との問いにセレンは微笑んだ。

「あの子は全てを思い出したよ。自分が死んだことさえ」
 
 クレバスが動きを止めた。その表情が凍りつくだろうかとセレンは期待したが、そうなることはなかった。心を落ち着かせるためだろう、ゆっくりと拳を握りながらクレバスが口を開く。
「…それで、英雄は?」
 ぎこちない声は、それでも穏やかさを保っている。
 自分への罵詈雑言ではないことに、セレンはいささか失望した。
 クレバスの瞳を覗き込んでも、憤怒のかけらすら見えない。
「なにも食べていないようだったな。薬すらも」
「そっか」
 クレバスが視線を落とした。
 グラスについた水滴が流れる。
 それを見届けてから、クレバスは顔を上げた。
「呼び出しといてごめん。オレ、行かなきゃ」
 英雄が待ってる、と腰を浮かせた。
 背を向けかけて、くるりとセレンを振り返る。どこか勝気な笑顔をしたクレバスは、もういつもの表情だった。
「言い忘れてた。ありがとう」
「ありがとう?」
 クレバスの言葉にセレンが眉を顰める。構わずにクレバスは言葉を続けた。
「英雄にまた会わせてくれて」
 クレバスが出て行くドアベルの音を聞きながら、セレンは背もたれに深く身を預けた。
 ため息をついて天井を仰ぎ、ランプの眩しさに目を細める。
 自覚するまでも無いほど動揺していると気づくのに、しばらくかかった。

 地下からの階段を駆け上がると、すでに陽が高くなっていた。
『あの子は全てを思い出したよ。自分が死んだことさえ』
 セレンの言葉を思い出して、クレバスは目を閉じた。
 思い出さなければそれが一番いいとさえ思っていた。逃げているといわれたって構わない。
 それでも、向き合ってしまったのなら。
 覚悟を決めるしかないんだろう。
 長く息を吐く。クレバスは顔を上げた。
 まっすぐに前を見る。歩き出す足の行く先は決まっていた。



 陽光の眩しさに、英雄は目を逸らした。
 景色がやたらに明るいような錯覚に陥る。気のせいだと、言い聞かせた。
「帰ると、約束したっけ」
 虚ろに呟く。通りを歩く足を受け止めるアスファルトも歪んでいるようで心もとない。
『君に嘘はつかない』
 かつて交わした子供のような約束だけが、今の英雄を支えていた。

第14話 END

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