DTH2 カサブランカ
第15話 「優しい歌を君に」
アレクはため息をついた。
ビルの非常階段に吹く風は、夏が近いせいか暑さをはらんでいた。鉄筋の階段が軋む。顔を上げた先には、真新しく建ったビルが、かつて起きた事件などまるでなかったかのようにそびえ立っていた。
5年前、あの場所が最後の決着の場だと思っていた。
アレクはこのビルから遠距離のサポートをすると約束していた。クレバスと共に階段を登った感覚を、今でもまざまざと思い出すことが出来る。息が吐く傍から夜の闇に紛れていった。
アレクは、非常階段から狙撃をするつもりでいた。本来なら屋上が望ましかったが、小細工をしている時間はなかった。だから、と当時の思考を辿りながらアレクは目を伏せた。
いいや、なのにと言うべきかもしれない。これを見つけたせいで、アレクは計画を変更せざるを得なくなったのだから。
赤茶けた錆びの滲む手すりに、今も読み取ることが出来る。赤のインクで書かれた、流美な文字。
『最上の眺めを、君に』
その文字を見た瞬間、誰が書いたのかわかったのは、その意味を余すところなく把握できたのは、やはり自分がパートナーだからだろうか。
特に会話をした覚えもないのに。
今だって、理解しきれない。
「…セレン…」
かつてのパートナーの名前を、アレクは口にした。
「私ハ…」
零れた言葉は、ビル風に溶けて消えた。
かつて英雄と暮らしていた頃、クレバスは子供である自分がたまらなく嫌だった。大人になれば力が手に入る。そうすれば、英雄の助けになれるのだと思ってた。
今、思春期を迎えた体は大人のそれと大差ない。むしろ体力を考慮すれば、現在が肉体のベストであると言っても過言ではなかった。
それでもやはり、自分は無力だとクレバスは思った。
心の問題に力の強さは意味を成さない。今の英雄を一言で救えるような人生経験も概念も、クレバスは持ち合わせていなかった。
けれど、英雄は自分を探しているのだと思う。
出逢った時、何を言えばいいんだろう。クレバスは思案した。
正しい答えはどこにもない。
自分で、見つけなければ。
「それで、なんの用で来たんだ。アレクさんに安静にするよう言われていたろう?」
まばらに人がいるG&Gの店内で、シンヤは呆れたようにクレバスを見た。突然店にやってきたクレバスを見る視線が明らかに不審がっている。クレバスは決まり悪そうに頭を掻いた。
「うん、…まあ」
ちらりと花に目をやって、それからまたシンヤを見る。
黒い髪に黒い瞳。英雄に似て、どこまでもクレバスとは好対照なその姿。
「ちょっと、顔見たくなってさ」
「朝、会ったばかりだ」
「うん」
素直に頷くクレバスにシンヤが怪訝な顔をした。
「何かあったのか」
「うん」
それで、とクレバスは言葉を続けた。
「ちょっと、わけてもらおうと思って」
「何を?」
強さを。
クレバスは心の中で呟いた。
クレバスとシンヤの英雄に対する姿勢は、姿形と同じく対照的なものだった。シンヤが葛藤を抱え続けているのをクレバスは知っている。いつでもこの街から出られるのに、シンヤは出て行こうとはしなかった。
葛藤を抱えた自分と向き合い続ける姿が、英雄に似ている。
言えばシンヤは怒るだろうが、クレバスはそう感じていた。
そしてその強さが欲しいと思った。逃げない強さが。
「ううん、もういいや。あれ?アレクとダルジュは?」
「いないよ〜。二人でお出かけだって」
店内を見渡すクレバスに、ガイナスが答えた。
モップに顎を乗せて唇を尖らせる。態度のどこにも歓迎の仕草は見られなかった。
「そっか、まいったな」
頬を掻いたクレバスは、少し考えるような仕草をした。セレンに聞いた英雄の居場所は、ヒントだけだ。ダルジュが知っていると言っていたが、その本人がいない。
「ま、いっか。これ、余りだろ?もらうよ」
呟いたクレバスは、ブタパンをひとつ掴むと、それを銜えて店を出た。
「なにアレ」
出て行くクレバスを一瞥したガイナスが憮然とする。
「さぁな」
シンヤは冷めた視線で、その後姿を見送っていた。
クレバスはパンをかじりながら通りを歩いた。
当てがあるわけではなかった。
それでもこの界隈にいるのなら、そしてもし、自分達に少なくとも縁があるのなら。
会える。
確信は揺らがない。クレバスは苦笑した。
運命だとかそんなものは信じない。まとわりつく糸なんか気持ち悪いと思う。
なのにどうしてそう思えるんだろう。
人生を決めるのは、いつだって人間だ。
そいつのジャッジが次の瞬間を作る。
クレバスが歩き出したのと同じように、きっと英雄も歩いている。
帰ると、約束した。
嘘だ、と思った。
英雄は今まで散々嘘をついていて、だからクレバスは反射的に嘘だ、と思った。
ああ、それでも。
『君に嘘はつかない』
最大限に守ろうとする、その姿勢だけは好きだった気がする。
角を曲がる。
もうすぐ英雄と初めて出逢った廃墟だった場所に出る。
感傷じみた自分を振り切るように、クレバスは最後の一口を飲み込んで顔を上げた。
その先に、見慣れた後姿を見つける。
英雄が、そこにいた。
Copyright 2005 mao hirose All rights reserved.