DTH2 カサブランカ

「あれ、英雄じゃん」
 自分の欝さを吹き飛ばすような明るい声に、英雄は振り返った。
 見れば、クレバスが立っている。
「クレバス…」
 乾ききった唇が言葉を紡ぐ。クレバスは小走りに英雄に駆け寄った。
 ふわり、と漂うなつかしい匂いに英雄は目を細めた。
 クレバスは、英雄の目が腫れているのに気づかないふりをした。
『あの子は全ての記憶を取り戻した』
 押せば倒れるような英雄の気配、抜け殻のようなそれにも、気づかないふりをした。
 英雄がクレバスに望むことは知っている。何も知らないでいて欲しい。笑って出迎えて、他愛の無い話をして。かつて英雄がそう望んでことを今も願っているだろうとクレバスは結論付けていた。
 結局、自分に出来るのはそれしかないだろうということも。
「どうしたの?あ、わかった。帰る途中だ」
 にしし、と見せるクレバスの笑顔を、英雄は茫洋と見つめていた。夢でも見ているのかと疑いつつも、徐々に、その口元がほころんでいった。
「ああ、そうさ。帰るって言ったろう」
 肩をすくめてみせる。英雄は、まだ自分が笑えることを知った。

 川に向けられ設置されたベンチのひとつに腰掛ける。
 鉄製のベンチは手入れが滞っているのか、ところどころペンキがはげて錆が露出していた。気にせず、2・3度手で払ってクレバスが腰を下ろす。英雄もつられるように座り込んだ。
 ベンチがきしりと音を立てる。二人は顔を見合わせた。
 流れる川の水音に合わせるかのように、クレバスは絶え間なく話をした。
 英雄がいなくなってからのこと。
 アレクとの生活が意外とスムーズなスタートだったこと。
 食文化の違いに驚いたこと。
 英雄と違ってアレクは食事を作ってくれたと言うと、英雄は苦笑した。その笑顔にクレバスがほっとする。思い出をたどるように、クレバスはまた話し始めた。
 学校のこと。G&Gを手伝い始めたこと。進学は、ちょっと考えたけれど、そのまま店の手伝いを続けたいと思ったから地元を選んだこと。
 ハンズスがその結論を嘆いたこと、でも最後には祝福してくれたこと。
「あ、そういえばハンズスとマージに子供が出来たんだよ。アリソンっていう女の子」
「子供が?」
 クレバスの言葉に、英雄は目を丸くした。
 そう言えば、ハンズスを狙撃した時、マージが子供を抱いていた気がする。調査書にもあったはずだが、あの頃は他人の情報として受け止めていた。
「そうか…」
 呟きながら水面に目線を落とす。
 時の流れを実感した。
 英雄が感じた空白を埋めるように、クレバスは話し続けた。
 ダルジュがカトレシアと結婚したこと。プロポーズのメールは、セレンがダルジュの携帯から送ったこと。クレバスはそれを目撃してしまったこと。
「オレが送ったんじゃないかって疑われてさ。セレンだって言ったら、たまらなく嫌な顔をしたくせに、結局セレンには抗議しないんだぜ?ずるいと思わない?」
「そりゃダルジュらしいな」
「でも、最後までカトレシアには言えなかったみたいだ。あんまり嬉しそうにされて」
「それも、…まあ、ダルジュらしい、かな」
 考えながら英雄は言った。
「…あまり想像出来ないけど」
「大丈夫、根は変わってないから。彼女の前でだけ違うタイプみたい」
 クレバスの呟きに英雄は笑い出した。
「クレバスにそう言われちゃお終いだな」
「なんだよ、オレだってそれくらいわかるよ。いつまでもガキ扱いすんな」
 その言葉を聞いた英雄の顔から笑みが消えた。クレバスがはっとする。
「そうだな、もう子供じゃない」
 僕よりも背も高くなったしと言った英雄の顔は、やはり笑っていなかった。
 覚悟を決めたような顔が嫌だとクレバスは思った。
 沈黙が怖くて話し出す。
 英雄は、黙って聞いていた。

 およそ5年分の全てをクレバスが話しきって、一息ついた頃に、英雄が川面を見ながら「ありがとう」と呟いた。
「知っていたんだね」
 なにを、と聞かなくてもわかった。クレバスの顔が歪む。肯定しているのと同じだった。
「…セレンから、聞いて」
「そうか」
 英雄は立ちあがった。
 歩き始めた英雄の足が、自分から離れていくような気がして、クレバスも立ち上がった。
 英雄が何か言う前に腕を掴んで歩き出す。
「クレバス?」
 驚いた英雄がよろける。クレバスは振り向かなかった。
「帰るぞ」
 ただ、英雄の腕を引っ張りながら足を早める。あと角を3つも曲がれば家に着く。
 それまで腕を放す気はなかった。
 英雄は自分を引っ張るクレバスの背を見ていた。行き先はわかる。家に向かってる。
 幸福な日々を過ごした思い出の詰まる我が家。縮まる距離に胸が痛くなる。
 もう自分より大きくなった背中に、かつて子供だった頃のクレバスが重なっていった。
「前にも、こんなことがあったね」
 穏やかが過ぎるような英雄の言葉に、クレバスの速度が緩まった。
「あの時も、君は何も言わずに僕の手を引いて。2人で黙って家まで歩いた」
 全てを知ったクレバスが、英雄を許した時だと直感した。忘れるわけが無い。
「あの時、僕は道が永遠に続けばいいと願ったよ」
 英雄の言葉にクレバスの足が止まる。
 それはあの時クレバスが思っていたことと同じだった。
 振り向いたクレバスに、英雄は微笑みかけた。ゆっくりと、英雄の手がクレバスから抜ける。
「でも、知ってるだろう?クレバス。永遠に続く道なんかどこにもない。僕らの道は、ここで分かれる」
 穏やかに、けれどはっきりと英雄は告げた。
 立ち上がる勇気はクレバスがくれた。
 だから自分は立っていける。
 
 独りでも。

「なに、言ってんだよ」
 クレバスが呻く。
「君に会えてよかった」
「なに言ってんだよ!」
 まるで別れの言葉を告げる英雄に、クレバスは叫んだ。
 英雄が困ったように微笑む。
「どうしようか、ずっと考えていた。困るね、生きてるって。もどかしくて」
「なんの話だよ」
「君に嘘はつかない、か」
 かつて何気なく口にした誓いの言葉を、英雄は呟いた。誓いと言っても、誓った場所は近所のショッピングモールで神聖さのかけらもない。あの時だって、本当に守る気なんてなかった。口からでまかせに近い。クレバスの疑いをそらせれば、なんでも良かった。
 それでも、言葉は重く心にのしかかる。
 口から滑り出た言葉がいつの間に呪詛になったのか、英雄はクレバスに嘘をつけなくなっていた。
「僕が変わっていったのは、間違いなく君のおかげだ」
 本当に会えてよかった、と英雄は告げた。
「大きくなった君に一目でも会いたいと思っていた。夢みたいだ。嬉しいよ」
「英雄!」
 これからだっていくらでも会える、と言おうとしたクレバスを英雄は手で制した。
「その男は死んだ。5年前、君の声に囲まれて」 
 自分に言い聞かせるように、英雄は呟いた。
「さよならだ。クレバス」
 君に嘘はつかない、だから本当に。
 英雄は微笑んだ。それはクレバスのよく知っている顔で、声で、それでも見知らぬ他人のような冷たさを持っていた。

第15話 END

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