DTH2 カサブランカ

 今年ようやく4歳になるアリソンの体は軽い。
 けれど、抱き上げれば、手に肌の質感と共に重さを感じることが出来る。
「クレバス、たかーい!」
 アリソンが声を上げて喜ぶのに合わせて、クレバスも微笑んだ。ハンズスの家の天井や家具にぶつからないよう細心の注意を払いながらくるくる回ってやると、アリソンは景色の変化に歓声を上げた。
「メシにしよう、クレバス。ほら、おいでアリソン」
 ハンズスの声に、クレバスが振り向く。抱き上げていたアリソンを降ろすと、彼女は一目散に父親に駆け寄った。「ママの手伝いをしなきゃな」ハンズスが言いながら腕をまくる。アリソンは自分からマージの元へと走り出した。
「オレも手伝うよ」
 クレバスが何の気なしにハンズスに言う。娘の姿を見送ったハンズスは、ゆっくりとクレバスを振り返った。
「大丈夫か?」
「なにが」
「英雄に会ったって聞いたぞ」
 ハンズスの言葉にクレバスは肩をすくめた。「うん、会った」
「ここでお別れだって言われたよ」
 絶句したハンズスの隣をクレバスがすり抜けるように歩く。その肩を、ハンズスは掴み損ねた。
「それで、どうする」
「どうもこうも」
 やれやれとクレバスがため息を吐く。
「英雄はオレに幸せになって欲しいんだって」
 あの日路地裏で言われた言葉を、クレバスは何度も何度も反芻した。
 英雄は告げた。
『君には幸せになってほしい』



 ベンチに座ってクレバスの話を聞きながら、英雄は次第に自分の心が決まるのを感じていた。
 自分のいなかった歳月、クレバスの過ごした日々は微笑ましく暖かなものだった。いつの間にか大きくなっていた少年、話し続けるその心遣いが嬉しかった。
 流れる川面を見ながら英雄は考えていた。
 自分の成すべき事はなにか。
 考えるまでも無かった。自分は、生き方をひとつしか知らない。
「君には幸せになってほしい」
 人通りが途切れた路地で、英雄は微笑んだ。蒼白になっていくクレバスの表情とは、ひどく対照的だ。 
「なにも君まで、僕と同じ世界で生きることはないだろう。道が分かれるのも、ごく自然のことだと思うよ」
 そう言う英雄の声は、どこまでも穏やかだった。
「僕らはそもそもが他人だ。出逢ったきっかけも、ひどいもんだ。クレバス、君は錯覚してるだけだ。僕らはなにがなんでも一緒にいなきゃならない関係じゃない。かつてそうだったように、僕らのいる世界は交わることは無い。本来の姿に戻るだけだ。君は表に、僕は裏に。互いの道を生きて行く」
 覚悟の決まった英雄に、クレバスはなにも言えなかった。
 そもそも一緒にいるような関係じゃない…?
 錯覚しているだけ?
 否定しようにも、うまく言葉が出て来ない。
「オレは、英雄の傍に…!」
「錯覚だよ、クレバス。思い出は美化される。僕との日々は薔薇色ではなく生傷の絶えない戦場だったはずだ。それに僕らが一緒にいなきゃならない理由なんてどこにもない。君には今、アレクがいる。そうだろう?僕が必要だとは思えないな」
 すがるようなクレバスの瞳を見返す英雄の視線は、どこまでも冷たかった。
 クレバスの内で警鐘が鳴る。こんな英雄は知らない。こんなに拒絶されたことはない。
 その葛藤を悟ってか、英雄は微笑んだ。

「君は、光だ。だから僕は暗闇でも生きていける」

 霧生英雄はあの瞬間に死んだのだと英雄は告げた。
「ここにいるのは名も無き亡霊さ。そんなものに、君は捕らわれちゃいけない」


 英雄はクレバスに日常を望んだ。マージのように、ハンズスのように、穏やかな会話をして、ささいなことに怒って、今日の夕餉は何かと考える。武器を持たずに過ごす、そんな日常を過ごして欲しいと。それは英雄と別れてから再会するまでの間、確かにクレバスが掴んでいたものだった。
 アレクとクレバスが過ごした日々は驚くほど穏やかで、クレバスは初めて英雄が日常を望んだ気持ちを知った気がした。それを、自分に望むのも。
 
 道が、分かれる。
 
 いつか、アレクからも似た言葉を聞いたことがあるとクレバスは思った。
 英雄の死後、G&Gをアレクが手伝い始めた時だ。てっきりハンズスの病院を手伝うのだと思っていたクレバスはいささか驚いた。問うと、アレクは言ったのだ。『道が変ワッタ』と。
 英雄の選んだ道を、すぐにクレバスは知った。
 新聞をにぎわせる連続殺人。アレクとダルジュは何も言わなかったが、ガイナスとシンヤがその標的が組織の要人に絞られているようだとクレバスに告げた。英雄だと、直感する。

『その男は死んだ。5年前、君の声に囲まれて』
『さよならだ、クレバス』

 恐らく、どこまでも本心で英雄は告げたに違いない。
 英雄は選んだのだ。自分の道を。
 復讐者として、闇に生きることを。
 いいや、そうでなくとも生きている以上、英雄と組織の関係が絶たれることはないのだろう。まるで終わりの無いその関係は、英雄が生きている間ずっと続くのだ。
 それを英雄は知っていたに違いない。
 英雄が望むままに生きる気が、正しいような気もした。
 それでも死亡記事がひとつ増えるたびに、クレバスの心に淀んだ何かが沈んでいく。自分が太陽の下で談笑している間、英雄は闇で動いている。いたたまれない、とクレバスは思った。
 アレクに相談すると、「ハンズスの家に行くといいデス」と言われて、促されるままに足を運んだ。
「そこで、自分で考えナサイ。クレバス」
 答えもヒントもアリマセン。クレバスを見送るアレクは微笑した。
「アナタの答えはアナタのもの」
 私は手伝えマセンと笑ったアレクは、それでも心配そうにクレバスの髪に触れた。
「アナタの霧ガ晴れますヨウニ」
 静かに額をつけたアレクが、祈る。クレバスの心が、ゆっくりとほぐれた。



 マージを手伝うためにダイニングに向かうと、アリソンがテーブルに食器を並べていた。リゾットのいい匂いがキッチンに漂っている。小さなアリソンが背伸びをしながらテーブルにスプーンを置いていく。その危なかしさに、クレバスは目を離せなかった。
 そして、気づいた。
 並べられたスプーン、デザインはどれも同じだが、色がひとつだけ違う。ゲスト用なのだ。
 ずっと長いことここで食事をしていたのに、今まで気づかなかった。
「家族だ」
 呟いた言葉にアリソンが顔を上げた。クレバスを見上げた大きな瞳のまま、不思議そうに首をかしげる。
「バスー?」
 3つのスプーンとひとつだけ色違いの自分のスプーン。家族と他人の違い。
『僕らが一緒にいなきゃならない理由なんてどこにもない』
 英雄はやっぱり嘘つきだとクレバスは思った。
 一緒にいなきゃならない理由がないなら、突き放す理由だってないはずだ。他人だと言い張るなら、いっそ巻き込んで利用してしまえばいい。
 それでも手を離すのは。
『僕との日々は薔薇色ではなく生傷の絶えない戦場だったはずだ』
「ばっかじゃねーの…」
 クレバスは呟いた。涙が一滴、頬を滑り落ちる。
「過去を錯覚してんのは、どっちだよ」
 自分は一度でもそれを嫌がったことがあっただろうか。
 呆れたように呟くクレバスの顔は、それでも微笑んでいた。


 あの日の君を誰より大事に思うから、今、この手を離すよ。
 君が幸せになることを、遠く遠くから祈ってる。


 流行りの音楽がテレビから流れる。クレバスは、涙を拭いた。
 瞳に光が戻っている。その光は、英雄が無くした希望の輝きを持っていた。

第16話 END


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