DTH2 カサブランカ

第18話 「猛き夜へと」

 朝、クレバスが目を覚ませば、アレクはもう起きていて朝食を作っているのが常だった。クレバスが起きるタイミングがわかっていたかのように並べられる朝食。テーブルにつきながら、まだ眠そうに目をこするクレバスに「おはようゴザイマス」と言うアレク。
 それが、英雄がいなくなってからの日常だった。
 日常の崩壊は、アレクの残した小さなメモから。

『クレバスへ
                 行ってきます。
                                  アレク』

 どこへ、とも、どこに、ともなかった。
 いつ戻るのかすら書いていない。
 クレバスはメモから顔を上げた。テーブルの上に律儀に用意された朝食。いつもなら、そこに笑うアレクがいるはずなのに。
 帰らないのだ。
 クレバスは確信した。
 いつも、アレクはクレバスに細心の気遣いをしていた。心配をしないよう、心細くならないよう。出かける時は必ず「どこへ」「いつ戻る」という伝言を欠かしたことはなかったし、遅れる時も連絡を欠かさなかった。一度、「もう子供じゃないんだから。アレクだって羽を伸ばしたい時があるだろうし、別にいいよ」と言ったことがある。
 アレクは笑って「そうデスネ」と言った。
 それでも、その習慣を欠かすことはなかった。
 クレバスが子供の頃、ふらりといなくなる英雄を探すことがあった。アレクはそれを知っていたのだ。
 アレクの優しさに包まれていたこの家に、今はその気配がない。
 手の中のメモは、なぜか戦場の気配がした。



 陽射しがほどよく差し込むG&Gの店内には光が溢れている。花々が水を弾いて、嬉々として咲き誇っていた。葉の緑の濃さ、花の色の鮮やかさが手入れの行き届いた様子を示している。
「藁ァ?」
「はい」
 素っ頓狂なダルジュの声に、シンヤは淡々と答えた。シンヤの表情の変わらなさとは対照的に、ダルジュの顔に苦味が走る。
「焼き窯の燃料に、木材じゃなくて藁を使いたいと思って。今ほどの焼き数なら、そんなにかさばりませんし、許可がもらえるようならガイナスと取引に行きたいと思います」
「かさばらねーってどのくらいだよ。置場なんかねぇぜ」
 シンヤがちらとG&Gの従業員室に視線をやった。
「1〜2週間分として、体積はあの程度かと」
「十分じゃねーか。だいたいウチはパン屋じゃねぇ。そこまでこだわることもねーだろーよ」
 ダルジュが横柄に答えながら、手にしていた鉢をカウンターに置いた。手を払い、値踏みをするようにシンヤとガイナスを見る。
 口を開いた瞬間に、クレバスが店のドアを開けた。
「おはよう。アレクって来てる?」
「ああ?アイツなら当分休…」
 当分休みだと答えようとしたダルジュが口をつぐんだ。鋭い目つきで射るようにクレバスを見る。
「…聞いてねーのか?」
「うん」
 さして驚く様子もなく、クレバスは頷いた。顔から普段の笑みが消えている。それなりに覚悟はしているようだとダルジュは察した。この分だと、アレクは自分が銃を手にしたことすら告げていまい。
『誰を撃つんだ?』
 ダルジュの問いに、曖昧に微笑んだまま答えなかったアレク。
『当分お休みクダサイ。シンヤとガイナスいる。私いなくても大丈夫、デショウ?』
 何言ってやがると憎まれ口を叩いたら、困ったように笑っていたけれど。
 はっとして、ダルジュはシンヤとガイナスを振り返った。
「? なんなのさ?」
 憮然とするガイナスに構わず、ダルジュは二人を凝視した。そもそも、この二人がこの店に来ることになったきっかけは、ハンズスの家でのアレクの発言だった。
『お店で働けばいいデス。留守番兼ねて住んで仕事スル、最高デス』
 あの頃から、考えていた?
 今の状況を?
『助かりマス。丁度人手不足デシタ』
 助かるのは、アレクではなくて。
 ”自分”だ…!
 ダルジュは思わず歯噛みした。
 アレクは自分の後釜を探していたのだ。次の雇い手が出来るまで、ダルジュが困らぬように。あの頃から、もう決めていたのだ。
「馬鹿が!」
 誰を撃ちに行ったのか?
 そんなのは決まってる。
『パートナーって、どんな関係デスカ?』
 どうしてあの瞬間に気づかなかったのかと、ダルジュは激しい後悔に襲われた。



 燃えるような憎悪ではなかったとアレクは思った。
 一時的に火がつくことはあっても、燃え尽きることはなく燻り続ける。それが、アレクがセレンに抱く感情だ。理解の境界線を超える事はなく、また超える気もない。
 相互理解なんて程遠い。ただひとつわかることがあるとすれば、永遠に互いの価値観を受け入れることはないということだった。
 それでも、存在を否定するには至らなかった。
 時折見える優しさが、アレクにためらいをもたらしていたから。
 けれど、それもあの日崩壊した。
 クレバスの誕生日、生きるはずのない英雄が目の前に現れた瞬間。
 セレンが背を向けたのは、クレバスにではなく「こちら側の日常」なのだとアレクは思った。G&Gでかろうじて保たれていた均衡。セレンは、まるで模索しているようにも見えた。
 自分は日常で暮らしていけるのか否か?
 答えは、出た。
 少なくともアレクはそう思った。
 
 誰かを、生きているだけで罪だとは思いたくない。
 けれど、アナタは生きているだけで周りを傷付ける…!

「セレン」
 アレクは呟いた。
 ライフルケースを抱き寄せる。
 ビルの屋上は、絶え間なく強風が吹き荒れていたが、この程度の風なら狙撃に差し支えないだろう。
 自分達に繋がりがあると思ったことはない。
 それでも、あの時アレクは、英雄を追おうとするクレバスをたしなめながら、背を向けたセレンを止めるのは自分の役目だと思った。
 他の誰でもない、自分の役目なのだと。
 独占欲に少し似ている。使命感と義務感もわずかに混じる。
 絆と呼ぼうにも、糸は途切れて届かない。
 アレクは微笑んだ。自嘲にも似た、寂しさの潜む笑みだった。
 穏やかな視線の先にそびえ立つビル。そこにセレンがいる。
 ライフルに手を伸ばす。
 馴染んだグリップの感触が、心地良かった。
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