DTH2 カサブランカ

 その電話が鳴っていることに気づいたのは、病院に来ていた子供達だった。
「おかーさん、でんわー」
「ええ?」
 裾を引かれた母親達が、怪訝そうに各々の携帯電話を確認する。ハンズスはその様子を立ち寄ったナースステーションから見ていた。
「もう、ちゃんと電源切ってあるじゃないの」
「違う違う!」
 子供が必死にスカートを引く。ハンズスは苦笑した。
 そういえばアリソンもよくマージのスカートを引っ張る。ハンズスにじゃれる時は掴むものがないので、ひざごと抱えて回るものだから、よく転びそうにもなったと思い返して、優しく微笑んだ。
「でんわ!」
 子供の指差す先を見たハンズスは、次の瞬間、顔から笑みを消していた。
 小さな指の先、廊下に佇む公衆電話のひとつが、確かに鳴っていた。

 あそこは、前に。
 英雄に電話をかけた…

 頭が理解する前に駆け出していた。
 手にしていた書類が抜け落ちる。
 構わずにハンズスは走り続けた。
 電話はまだ鳴っている。
 一歩、あと一歩。
 小首を傾げた看護婦が、不審そうに受話器に手を伸ばした。
「取るな!」
 叫んだハンズスは、看護婦の手から奪い取るように受話器を手にした。「もしもし!」
「もしもし!?英雄!?」
 
 返って来たのは、通話音だけだった。

 言いようのない落胆がハンズスを支配した。体からがくりと力が抜ける。
 傍で驚く看護婦に、すまなかったと声をかけても、しばらく動く気になれなかった。
「ただの悪戯だ」
 自分に言い聞かせるようにハンズスは言った。
「そうですよね」
 理解しきれないという視線でハンズスを見た看護婦が職務に戻っていく。
 そうだ。悪戯だ。
 英雄は、戻らないと決めたのだ。クレバスからそう聞いた。
 ハンズスは頭を垂れた。「馬鹿野郎」と誰にともなく呟く。唇を噛み締めて、顔を上げて、それから。ハンズスは手にしたままの受話器を見た。
 自惚れだと、自戒する。英雄がわざわざかけてくるはずがない。
 それでも、もしも。
 もしも――――――――――



 英雄はゆっくりと携帯を眺めた。
 うっすらと暗くなってきたせいか、液晶の周りが光る。それを楽しそうに眺めながら、英雄は歩いていた。
「まだこんなものを持っていたなんて、僕は結構未練がましいんだな」
 偶然ポケットに入っていた携帯。残っている履歴はひとつだけだった。かけてみたのは、ほんの戯れで。ハンズスが出るわけがないと知っていた。
 薬のことを教えてくれたのはハンズスだと覚えてる。
 狙撃をした自分を恨んでいるだろうか。とりあえず、現状を知ったら怒るに違いないと英雄は思った。
 液晶の画面が変わる。
 着信を示すその画面に、英雄の足が止まった。
 ハンズスだ。出なくてもわかる。
「なんでだ」
 しばらく英雄は画面を見続けた。
 せわしなく点滅するランプが、自分を責めているようにも見えた。
 それでも、わかる。自分は今、笑っている。ともすれば泣き崩れそうな顔をしながら、笑っている。
 たかがこんなことが嬉しい。変わらぬ友情を、知った気がした。
「ありがとう」
 英雄は呟いた。
 名残惜しそうに携帯を指で撫で、それから傍らのダストボックスに投げ入れる。乾いた音を立てて、携帯電話が飲み込まれていった。
「さよなら」
 一人静かに別れを告げる。
 もうその言葉を誰かに面と向かって言う勇気がない。
 英雄は自分の卑怯さを自覚した。
 感傷に浸った心は、しかし、瞬きの瞬間に切り替えられる。
 現れた瞳はすでに冷め切っていた。
 その瞳に映るビル。
 組織幹部の残り3人がいる、本拠地。



 この世に馬鹿の勲章と言うものがあるのなら、この男に贈ってやっても良い、とセレンは思った。懊悩深くため息を漏らしながら、窓際にいるスペードに声をかける。
「あまり窓に寄らぬ方がいいですよ。狙撃の可能性がある」
「ふん、私がその程度で死ぬものか。それよりしくじるなよ。ここでうまく恩を売れば、私が組織ナンバー1だ」
「御身を危険にさらしての作戦。恐れ入ります」
 格好の餌にされているのに気づかないらしいスペードは哄笑した。恐らく残りの組織の幹部としては、スペードを餌に英雄を包囲する気でいるのだろう。このビルは組織の息がかかっている。なにがあってももみ消すことはたやすいはずだ。しかも餌のネズミは乗り気である。便利この上ない。
 英雄は、と考えてセレンは唇を舐めた。
 来るだろう、それでもここに。
 ぞくり、と背を駆ける高揚感。戦場にいるが故のプレッシャーが心地良い。
 セレンの唇が、妖艶な笑みを象った。


 夜の帳が静かに降りる。
 猛き夜が、始まろうとしていた。

第18話 END


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