DTH2 カサブランカ

第20話 「僕の決断」

 セレンの指がゆっくりと折り曲げられる。気づいた英雄が、咄嗟に場を移動しようとした時にはもう遅かった。左足に熱い痛みが走る。鋼糸が、すでに英雄の足を捉えていた。
 肉が切れる。傷は浅い!焼けるような感触に構わず、英雄は一歩踏み出してセレンの腹に左肘を打ち込んだ。それを避け、後ろに飛んだセレンに向けて銃弾を続けざまに放つ。当たらなくていい。鋼糸にこれ以上足をもっていかれないための牽制に近かった。セレンが腕を引き、あわせて鋼糸が大きく弧を描くのを目で追いながら、英雄は床を蹴った。セレンと距離を保ったまま平行に駆ける。足の傷は痛むが、走れないことはない。
 英雄がちらりとスペードに視線を走らせる、その瞬間をセレンは見逃さなかった。 
 空を切る音。反射的に屈んだ英雄の髪が、少しだけ切れた。
「余所見は感心しないな。私だけを見ていろ」
 笑うセレンの白いシャツ、その右肩部分に、赤い染みがじわじわと広がっていく。
 英雄は、内臓が冷えていくのを感じた。熱いはずの体の中の他人の存在。
 肩で息をしながら、英雄がセレンを睨んだ。邪魔をするなと言わんばかりの視線に、セレンがほくそ笑む。
 ふっと息を吐いて、英雄が銃を構えた。セレンの鋼糸が、英雄を囲むように舞う。
 次の瞬間、英雄は構えた銃を捨て、セレンに駆け寄っていた。
 踏み込んだ足を軸に身を低く、床に手をつきながら足払いをかける。セレンは鋼糸を引き戻すことにこだわらず、糸を捨て後退した。続く英雄の拳をいなしながらその無防備な腹に膝を入れる。ガードする英雄の肘の感触に、満足げに微笑んだ。
 


 ビルの入り口はおろか、1階のフロアのどこにも人影は見当たらなかった。
 クレバスは自動扉をくぐった。戦場特有の張り詰めた空気がクレバスを迎える。
 エレベーターは動いているようだったが、動かなくなった時に対応が出来ないだろう。そう考えたクレバスは階段を登ることにした。英雄がこのビルのどこにいるのかわからない。フロアをひとつずつ調べるのは随分骨だ。クレバスが嘆息した時、銃声がした。何度も、何度も。遠く、上のほうから。
「…英雄」
 クレバスが駆け出す。
 その後を武装した一団が静かに追尾していることには、気がつかなかった。



 何度目かの攻防の後、互いに距離をとったセレンと英雄は肩で息をしていた。
 頬に打撃の跡を残したセレンが、口の中にたまった血を吐き捨てた。
「ふ、強情さは変わらないな」
 目元を切った英雄が頬の血を拭いながら、目を細めた。唇に笑みが漏れる。
「セレンこそ。相変わらず身勝手だ」
「幹部を潰したところで、また別の人間が上に立つ。お前が相手にしようとしているのはそういうものだ。キリがない」
「そうだね」
 英雄は頷いた。
「でも、僕はやる」
 そうでなければ、生きてはいられないと英雄は言った。
「本当はもっと別の生き方がしたいんだけどね。どうも叶わないみたいだ」
「…そうか」
 セレンは微笑んだ。その表情の柔らかさに、英雄が意外そうな顔をする。
 いつも見せるセレンの笑みは、どこか人を見下げたような、含みのある笑みだった。今のセレンにはそれがない。素のセレンを、英雄は初めて見た気がした。
「セレン…?」
「ようし、もういいだろう、止めを刺せ!」
 スペードの声に、英雄は動きを止めた。水を差されたセレンがひどく不快そうな顔をして、後ろを振り向く。椅子から立ち上がったスペードが、横柄にセレンに命じた。
「さあ、やれ!」
 軽蔑を含んだ視線でスペードを見たまま、セレンは微動だにしなかった。
「断る」
 冷徹に、はっきりと告げられた言葉に、今度はスペードが動きを止めた。
「な、んだと?」
 これが見えんのか!とスペードが指輪をはめ込んだ指を見せ付けた。セレンが、興味なさげに一瞥する。
「セレン」
「まあ、一種の遊びだな。あれに飼われてみたのは。ひどく下卑た生き物がいるのだといういい勉強にはなった。お前とやれるだろうという目論見も果たせたし」
 だからもういい、とセレンは手を振った。
「…やっぱり、遊びだったんだ…」
 英雄は全身から力が抜けていくのを感じた。薄々そうではないかとは思っていたが、しかし。セレンの遊びは人を殺す。本気で行かなければ、自分は死んだのだと英雄は自分を慰めた。
「そんな顔をするな。お前に生きて欲しかったのは本当だ」
 さらりと言われた言葉に、英雄が顔を上げた。もうセレンは顔を逸らしていて、その表情が見えない。
「セレ…」
「クズ共が!」
 スペードの鬼気迫る叫びに、英雄は我に返った。
「お前がやらねば私がやる!その男の手術をしたのは誰だと思っている!爆弾を埋め込むことくらいたやすいことだ!」
 英雄は冷水を浴びせかけられたかのような寒気を感じた。かつてシンヤとガイナスに埋め込まれていた爆弾。それが、この身に…?
 予測しなかったと言えば嘘になる。けれど。

 スペードが指輪のひとつを押す。
 止める間もなかった。英雄が思わず目を瞑る。

 5秒経っても、なにも起きなかった。
 恐る恐る瞼を開けると、スペードが呆然と英雄を見つめながら、何度もスイッチを押していた。
 英雄の横を通りながら歩き出したセレンがつまらなそうに告げる。
「手術をしたのはあんたの部下だな。あんたじゃない。私は立ち会っただけだが…皆、命は惜しかったと見える」
 そんな無粋なもの、埋めさせるわけがないだろうとセレンは言った。
「く…!」
 スペードが恥辱に震えた。
「セレン」
 英雄に構わず、セレンは背を向けたまま歩いていった。英雄と距離を取る。英雄にはなかった異物が、確かにその胸に入れられているのだ。スペードはスイッチを押すだろう。
 なぜか止める気にはなれなかった。
 楽しかった。だからまあいいじゃないか。
 頬の痛みすら心地良い。セレンは満足げに微笑んだ。

 セレンが英雄と離れるのを視認したアレクは、狙いをつけた。
 引き金を引く。
 滑り出るように吐き出された弾は、目標に向けて空気を裂き一直線に飛んで行った。

「おのれええ!」
 スペードが咆哮を上げながらセレンの爆弾のスイッチである指輪をはめ込んだ手を掲げる。押そうとした瞬間、その手が指輪ごと弾け飛んだ。
 英雄とセレンが目を見開く。粉砕された自分の手を不思議そうに見ていたスペードの額に、黒い穴が開いた。その場にスペードの体が倒れ伏す。
「狙撃…!?」
「アレクか」
 窓に開いた穴、その角度を見たセレンが遠くそびえるビルを一瞥した。
「アレクが…」
 呟いた英雄は、わずかに聞こえた声に耳を疑った。自分が呼ばれた気がしたのだ。遠く、クレバスの声で。幻聴かと思い直して、しかし次第にはっきりとするその言葉に思わずドアを見た。
「英雄!」
 幻が、扉を開けてそこにいた。
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