DTH2 カサブランカ
アレクは唇を開いた。重く垂れ込めた吐息が漏れる。
スコープ越しにセレンの笑顔が見えた。いつもと違う、優しさの滲むような穏やかな笑顔。ただそれだけで、引き金を引けなかった。
組織幹部を撃ったことで、自分にも追っ手がかかるだろうことはわかっていたのに。
アレクはもう一度ため息をついた。
狙撃地点を割り出される前にここを離れるべきだと自分を説得し、顔を上げる。
「エッ?」
視界を掠めたスコープの映像に、思わずアレクは声を上げた。慌てて、銃を構えてスコープを覗きなおす。
見慣れた金髪が横切った気がした。
気のせいだと思いたかった。けれど。
「ドウシテ…!」
アレクの視線の先、スコープに区切られた世界に、クレバスがいた。
咄嗟にアレクがビルの他のエリアを見渡す。ビルの壁面がガラス張りである為に、アレクにはそれを視認することが出来た。黒のタイトスーツに身を包んだ人間達が移動している。武装している一団に、英雄とクレバスは囲まれつつあった。まだ一団がフロアに達していないために気づいていないに過ぎない。
しかし。
アレクは唇を噛み締めた。
一団は下から順に占拠しながら階を上がっている。
二人の退路が、ないのだ。
アレクの首筋を、汗が一筋流れ落ちた。
辺りを見回す。今から新しい狙撃ポイントに移動するにはロスが多すぎる。
「クソ!」
らしくなく叫んで、アレクは拳を床に叩きつけた。
震える拳を受け止めた床は、夏の余熱をまだ残していた。
英雄は喉が急速に渇いていくのを感じた。
なぜ、クレバスが目の前にいるのかが理解できない。
「な…」
声をかけようとした瞬間、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
「なに!?」
驚くクレバスの向こうに銃口の光を認める。「伏せろ!」叫びながら自分は転がって、銃を手にした。起き上がり様に撃ち抜く。身を屈めたクレバスの手を引き、「こっちだ!」自分の前を走るよう促しながら開いた手で銃を撃つ。
「その先にもうひとつ階段がある!上がれ!」
「わかった!」 叫び返したクレバスが駆け出す。
距離を詰めようとした黒服の鼻先を、予測外の方向からの銃弾が掠める。アレクだ、と英雄は直感した。狙撃を警戒した黒服の動きが止まる。その隙に英雄達は上へと駆け上がった。
上のフロアに至ると、英雄は手榴弾を取り出した。安全ピンを抜いて、8秒ほど手のひらでカウントしてから、下に投げてやる。爆音を聞きながら、手早く糸を取り出して即席のトラップを仕掛ける。もうひとつの階段にもそうした。それから、改めてフロアを見渡す。先ほどと同じく、機材らしい機材は見当たらない。むき出しの支柱の他には、隠れるような場所もなさそうだ。
英雄はため息をついた。
「罠だったみたいだね」
あっけらかんと感想を漏らすクレバスを睨みすえる。その両肩を掴んで、英雄は叫んだ。
「どうして君がここにいるんだ!」
クレバスはむっとしたような顔で英雄を見ていたが、やがて口を開いた。
「なんでいちゃいけないんだ」
「なんでって…」
英雄が絶句する。
「さよならをしたはずだ」
絞り出すように英雄は言った。すすと埃にまみれたクレバスの体に視線を落として、顔をゆがめる。
「君と僕とでは生きる世界が違う」
「違わない。オレは英雄の傍にいる」
「馬鹿を言うな!」
英雄はクレバスを叱り付けた。
「君は今、これからなんにだってなれるじゃないか!未来をわざわざ潰すことなんかない!」
「お前こそいい加減にしろよ!」
クレバスが英雄の胸倉を掴んだ。壁に叩きつけるように押し付ける。痛みに顔をしかめた英雄に腹の底から怒鳴りつけた。
「あの日お前はオレを選んだ!それだけで、もう戻れないんだよ!」
自分を射るように睨むクレバスの瞳を、英雄は正面から受けた。
言葉が、自分の内に響く。
『家族は、そんな風にやめられるものじゃないの。あなたが、そう、思わなくても』
いつかマージに言われた言葉を、なぜか英雄は思い出した。
まだなにか言いたそうにクレバスが口を開いた瞬間、英雄が仕掛けたトラップが起動し爆発が起きた。間髪入れずに黒服の男達がフロアになだれこむ。
「ち!」
舌打ちをしたクレバスが英雄から手を離した。英雄に背を向け、手を掲げる。
鋼糸が舞う。
その姿を、英雄は呆然と見ていた。
昔、小さなクレバスが武器を使うのが嫌だった。
それが原因で衝突したこともある。
―――――――今は?
英雄は奥歯を噛み締めた。感覚がなくなりかけた左足を叱咤する。
黒服が銃を向ける。クレバスが銃身を切断しようと、鋼糸で弧を描く。放とうとしたその瞬間、クレバスの視界に銃身が飛び込んできた。
英雄がクレバスの前に身を滑り込ませる。そのまま引き金を引いて、黒服を沈めた。
連続した弾丸が正確に黒服を貫いていく。
慌てた黒服達が、階段の踊り場付近まで引いていった。
薬莢が床に落ちる。硝煙のむせるような香りがフロアに立ち込めた。
クレバスに背を向けたままの英雄は、どこか殺気にも似た気配をまとっていた。
「君が」
英雄は呟いた。
長く深い息を吐く。
「君が、武器を使うことはない」
短い言葉。それでも、言い切るまでが長かった。
「僕が守るから」
噛み締めるように、英雄は告げた。
穏やかな声は、確かにクレバスに届いていた。
第20話 END
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