DTH2 カサブランカ

第21話 「この手を離さない」

 ガイナスは着信画面を見て、顔をほころばせた。
「おばさんだ!」
 上機嫌で電話に出る。その様子をちらりと見て、シンヤはハンドルを握りなおした。荷台が重くなったせいか、トラックの足が一層遅くなった気がする。
 街が暗闇に包まれる。流れるネオンを見ながら、シンヤはアクセルを踏んだ。
「あ、うんうん。元気だよ。え?シンヤ?代わる?」
 わかったと返事をしたガイナスが、シンヤに携帯を突き出した。
「代わってだって〜」
 運転をしているんだが、と断りかけたシンヤは、受話器の向こうから聞こえる声にウィンカーを出すと路肩にトラックを止めた。
『シンヤは?元気か?なんか困ってないか?』
『まだですよ。ガイナスは元気ですって』
『おお、そりゃよかった。で、シンヤは?』
『しんやは〜?』
 携帯の向こうの光景が見えるようだとシンヤは思った。自分達を拾ってくれたおじさん、おばさん、出逢った時には2歳だったマリア。
「…代わりました。シンヤです。ご無沙汰しています」
 元気か、ちゃんと食べているかとの矢継ぎ早な質問に、シンヤは的確に答えていった。
 その様子をガイナスは見つめていた。シンヤは多分、気づいていない。自分が今、どれだけ優しい笑顔をしているのか。
「ガイナスも元気ですよ。ええ、はい。無茶はさせていません。きちんと見ています」

 
 その人達に会ったのは、小雨が降っている日だった。ガイナスが風邪を引いて、熱を出した。熱を出していたこと自体シンヤにも言わなかったものだから、悪化しすぎて道の途中でもう動けなくなってしまった。
「大丈夫か」
 シンヤの声も遠かった。うずくまりそうになりながら、それでも起きなきゃとガイナスが思った時に、通り向こうのパン屋の扉が開いた。駆け寄ってきたおばさんは、ガイナスの額に手を当てると、ガイナスを持って行った。後にシンヤに言わせると、それはまさしく「持って行った」と形容するにふさわしい格好だったのだという。
「覚えていないのか?お前は小脇に抱えて持っていかれた」
 だからてっきり新手の人攫いかと思ったとシンヤは言った。
 慌てて後を追ったシンヤに、おばさんはタオルを差し出すとシャワーの場所を示した。シンヤは丁寧に固辞した。ガイナスの傍を離れるのが不安だったのだ。まだ、人を信じられなかった。
 おばさんは一瞬呆れたようだったが、仕方なさそうに笑って暖かなコーンスープをシンヤに手渡した。それはほっとする暖かさを持っていた。
 おばさんは医者を呼び、支払いをシンヤが申し出ると、かたくなに拒否した。
 それなのに、いつまでもいてもいいと言う。
 親切というものはこんなに居心地が悪いものかとシンヤは思った。
 しゅんしゅんとやかんが音を立てる。ベッドに横たわったガイナスは熱に浮かされていて、額にうっすらと汗が滲んでいる。当分動くことは難しそうだった。
 扉の開くわずかな音に、シンヤが気づいた。顔を上げると、そこに小さな女の子が立っていた。絵本を持っている。
「ごほん、よんで」
 おじさんかおばさんを呼ぼうと、シンヤは腰を上げた。階下から、店での勘定のやり取りが聞こえる。二人とも今は忙しいのだろうと思った。ふと足元を見ると、女の子がシンヤを不安げに見上げている。
「いいよ。見せてごらん」
 シンヤは絵本を手に取った。ガイナスを起こさないよう、小さな声で本を読む。
 女の子はいつの間にか、シンヤの膝の上でそれを聞くようになっていた。
 
「すごくうるさかった。なんなの、あれ。オキョウ?」
 ガイナスの不満げな声に、シンヤは眉をひそめた。熱が下がったと思ったらこれだ。クレバスが毎回食って掛かるのも少しわかる気がする。
「大体なにこのボロ屋。なんで僕らこんなとこにいるわけさ?」
 室内を見渡したガイナスが愚痴る。室内は年季が入っていたが、手入れが行き届いていた。ボロ屋というのはあんまりな評価だろう。
「お前が熱を出したからだ」
「なにそれ、僕のせいなわけ?」
 他に誰のせいなんだ、とシンヤは内心毒づいた。と、ガイナスの口撃がぴたりと止む。見れば、マリアが背のびをしながらガイナスに向けて本を差し出していた。
「ごほん、よんで」
「なにこれ」
 ガイナスがマリアを指差した。
「マリアだ」
「聞いてないよ」
「ごほん、よんで」
 嫌だ、とガイナスがそっぽを向く。シンヤが見た時にはもう、マリアの瞳に大粒の涙がたまっていた。泣き声は店を突きぬけ、商店街に轟くほどに大きかった。たまりかねたガイナスが耳を押さえながら叫ぶ。
「なにこれ!すごくうるさいんだけど!」
「いいから本を読んでやれ」
 他に方法はないんだとシンヤが言うと、しぶしぶと言った風情でガイナスは絵本を読み始めた。
「なんだって僕がこんなこと…三匹のこぶたがいました…なにこれ。ブタばっかなんて可愛くないじゃん。ある日、お兄さんのこぶたは言いました…兄ってのはろくなもんじゃないよね。オオカミに負けない家を作ろう…無理だってば」
 それを読んでいると言うのかは怪しかったが、マリアは満足したようだった。ベッドに寄りかかるようにして聞いていたのが、気づけばそのまま眠っている。シンヤがマリアを抱きかかえても、ガイナスはまだ絵本を朗読していた。
 もういい、と言いかけて、ガイナス自身が絵本に熱中していることに気づく。そのままそこに腰を下ろして、シンヤはマリアの体温を感じながらガイナスの声に耳を傾けた。
 優しい優しい時間だった。

 一度だけ、シンヤはおばさんに言ったことがある。
「…俺達は何もできません」
 親切にしてもらってもなにも返せないとシンヤは言った。脳裏に母親の姿がよぎらなかったと言えば嘘になる。
 おばさんは答えた。
「私達は、私達のわがままのためにしているの。だから、あなたが気にする必要はないのよ」
 それから、少し間を置いて。
「それでも、あなたがなにか返したいと思うのなら、幸せになってほしいわ」
「幸せ…?」
 シンヤは言葉に詰まった。「俺にはわからない」
 本当は少し触れていた。そうでなければ、涙が流れるはずはない。
「ゆっくり見つければいいのよ」
 おばさんはそう言ってシンヤを抱きしめた。姿形はまるで違うのに、シンヤは間違いなく母の姿をそこに垣間見た。


「ええ、ちょっとこちらで用事があって」
 シンヤはそこで言葉を切った。
 通りを過ぎる車のヘッドライトがその表情を照らす。シンヤは、優しく穏やかな笑みを湛えていた。
「でも、全部終わったら必ず帰ります」
 シンヤは告げた。
「おじさんとおばさんの家が、俺とガイナスの家ですから」
 一緒くたにされたことを、ガイナスは否定しなかった。ただ、照れくさそうに窓の外を睨んでガムを膨らませていた。
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