DTH2 カサブランカ
最終話 「カサブランカ−その愛の定義−」
落ちていく先になにがあるのか、クレバスは知らなかった。
それでも構わないと思ったのだ。
例えそこが切立った崖だとしても、後悔はしなかっただろう。
それでもこの手を離しはしないと、それだけを願った。
その先になにがあるのか、英雄は知っていた。
道だ。いつかクレバスを拒絶した通りに少し似ているアスファルト。
叩きつけられても、自分がクッションになればクレバスは助かるかもしれない。
いいや、きっと助けてみせる。
それまでこの手を離しはしないと、それだけを思った。
二人を迎えたのは、布製の幌を張ったトラックだった。
幌を突き破って落下した二人を、中にぎっしりと詰め込まれた麦わらが受け止めて、クッションの役割を果たす。
英雄はクレバスを抱えたまま、束で積まれた麦わらの中で呆然と夜空を見上げた。綺麗な満月がビルの合間から覗いている。
何が起きたのか、とっさに理解しきれない。荷台の鉄筋にぶつけたらしい脚の痛みが、どこまでも現実だと訴える。
そんな英雄を見下げるように降って来た声。
「相変わらずどこまでも自分勝手なんだな」
満月を背にしたシルエットが英雄を見下す。軽蔑しきったような視線に覚えがあった。
「…シンヤ…?」
シンヤは鼻を鳴らすと、運転席にいるガイナスに声をかけた。
「無事回収した。行け」
「は〜いっ!」
ガイナスがアクセルを踏む。
トラックがエンジン音を上げて唸りを上げた。
「いたぞ、あそこだ!」
追っ手の声にシンヤが視線を上げた。無言で銃を構えると、数発ビルに向けて撃ち込む。
「いっくよ〜!」
クラクションを鳴らしたトラックは猛スピードで動き出した。運転の荒さに英雄が思わず柱を掴む。シンヤは慣れているのか器用にバランスを取ったまま後方を睨んでいた。
カーブを曲がった拍子にクレバスが柱に頭をぶつけた。
「痛っ…」
「大丈夫か、クレバス」
後頭部を押さえたクレバスが顔を上げた。英雄の顔を見て、にんまりと笑う。
「やっと捕まえたぞ」
堪えきれずにくすくすと笑い出すクレバスを見た英雄の表情がようやく和らいだ。
どこか遠くでクラクションが鳴る。その音でアレクは目覚めた。
視界が次第にはっきりする。白い天井、換気のための大きなプロペラが静かに回転していた。
壁にかけられているあれは、自分のコートだ。その下にライフルケースがある。
自分が寝かされているのがベッドだと気づいて飛び起きる。
途端に、眩暈がした。
「…ウ…」
眉根を寄せて頭を抱える。
「気づいたか」
声をともに、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りがした。顔を上げると、セレンがコーヒーカップをアレクのベッドサイドに置いた。
「…セレン…」
「いくつかある私の拠点のひとつだ。コーヒーくらいしかないが、飲むといい」
そう言って背を向けたセレンの白いシャツ、左腕が血に染まっているのをアレクは見咎めた。
「血ガ…」
言われて初めて気づいたように、セレンは自分の腕を見た。
「ああ、ここもか。折角着替えたのだがな。まあ、大したことはない」
セレンの顔の左半分を覆った髪の合間から微笑む唇が見えた。その唇の端が切れているのに気づいた途端、アレクの中に全てがフラッシュバックする。
落ちて行く英雄とクレバス。
自分は…
「あの子達は無事だ。安心するといい。あれだけ連射をすれば、いくら馬鹿でもスナイパーの位置に気づく。随分派手に囲まれていたぞ」
「わかってマシタ」
アレクがシーツを握り締めた。俯いて、わずかに唇を噛む。
構わないと思っていた。あそこで死んだところで、それがクレバスの助けになるのなら、全く構わないと。
「そうか」
セレンが呟く。瞬間、アレクは気づいた。慌てて顔を上げる。
「私のタメ…?」
「なにがだ」
そうでなければセレンがあの場にいた理由がわからない。今、こうしていることすら。
囲まれたアレクを助け出すために、セレンはあの場所にいたのだ。
アレクはセレンに駆け寄った。
「傷を見セテ」
「大丈夫だ」
「イイカラ!」
強引にセレンの腕を掴んで裾を捲り上げる。
セレンは呆れたようにアレクを見ながら、それでもアレクの好きにさせていた。セレンの傷を見たアレクが眉をひそめる。血こそ止まっているが、銃弾が掠めたらしいその跡は肉が抉れていた。痛むはずのセレンはそのそぶりすら見せない。
「傷薬ハ?」
「簡単なものならその棚の上に」
セレンにベッドに座るよう言って、アレクは棚の上の救急箱に手を伸ばした。
ベッドに腰掛けたセレンに跪くように、その傷の手当をする。半ば怒ったように押し黙って消毒を始めるアレクを見つめていたセレンが口を開いた。
「一緒に暮らさないか?」
包帯を巻いていたアレクが、ぴたりとその手を止める。
眼を丸くしたまま、ゆっくりと顔をあげる。アレクの黒い瞳が、別にどうということのなさそうなセレンの顔をまじまじを見つめた。
「ハ?」
「クレバスの元に英雄が戻ったのなら行き場がなかろう」
「…郷里に帰りマス」
呆然としたままアレクが答えた。
「帰れまいよ」
セレンが否定した。
アレクの瞳がわずかに揺れる。
「だからこの街に居続けた。そうだろう?」
そう言ってセレンが微笑んだ。
アレクは、俯いた。包帯を握った手が震える。
否定をしたいのに喉が渇いて言葉が出てこない。
郷里の家族に再会を果たし、共に暮らすようになって、アレクは気づいたことがあった。
いつの間にか、価値観が変わっていた。以前の自分なら考えられない選択肢が思考の中に加わっている。ひどく暴力的な解決方法。動揺するよりも先に冷静に物事を見ようとする眼。
それが組織にいたせいだとアレクはすぐに気づいた。
違和感は徐々に、しかしはっきりとアレクを責めた。
自分の笑顔がぎこちない。アレクには自覚があった。変わってしまった自分をいつ家族に悟られるか、心のどこかで怯え続け、そしてもうそこがアレクにとって安住の地ではないのだと知った。
今も家族を愛してる。
それでもずっと傍にいるには、自分は変わりすぎた。
極力影響を受けないよう、自分は自分であるよう努めてきたはずなのに。
「私ハ…」
アレクの口から言葉が絞り出された。
クレバスと暮らし始めた時、クレバスが言ったことを覚えてる。
『医者にならなくていいの?』
あの時アレクは『道が変ワッタ』と言ったけれど。
変わったのは自分なのだ。
英雄の申し出を受けて、この街に戻ってきた時に感じた懐かしさ。
それは確信をもたらすに十分な感慨だった。
『還ってきた』
戦場となるこの街を、アレクはいつの間にか己の居る場所だと定めていた。
「私は、アナタが嫌イデス…!」
包帯を握り締めるようにアレクが言った。
「知っている」
セレンが答えた。
「初めて逢ったトキから、ずっとずっと、嫌イデス…!」
いつでもなんでも知っているような顔をしているこの男がアレクは嫌いだった。
指令を先走りして、アレクが駆けつけた頃には大抵終わってしまっている。殺しがそんなに好きなのかと思って軽蔑すらしていた。
違うと気づいたのは、つい最近のことだ。
ダルジュから指令をほとんど押し付けられて辟易したと聞いた時、違和感を感じた。
『いつだってサボって仕事なんかちっともしやしねーよ』
『え、デモ…』
否定しかけたアレクが回想したのは、指令現場を立ち去るセレンの後姿だけだった。
『もう終わった』
いつでもそう言って背を向ける、ほとんど会話もしたことのないパートナー。
郷里に帰る飛行機の中で、見送りの人々が佇むロビーにその姿を見た気がした。
包帯を巻かれたセレンの腕に、ぽたりと何かが落ちた。俯いたアレクの肩が小刻みに震える。
腕に触れたぬくもりがアレクの涙だと気づいたセレンは、困惑を隠せない顔でただアレクを見つめていた。
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