DTH 特別番外
なにも聞いていないということは何一つ知らないということであり、それは己の身の安全を保証するものではないということをダルジュは熟知していた。
だからこそ、ダルジュはG&Gに現れた英雄をつま先からじろりと睨みあげ警戒を解こうとはしなかった。
「なんでてめぇがここにいるんだ。ここは従業員の休憩室だ」
「僕だって、好きで来たわけじゃない」
「アレクが足捻ったんだって。セレンに言われてさ。だから、代理」
言いながらクレバスが店のユニフォームを着始める。昼の花屋用のエプロンではない。夜のバーテンダースタイルだ。
「おい、お前もだ。なにやってやがる。未成年だろが」
「ダルジュ、良識派になったんだ」
感心したように英雄が言う。即座にダルジュがその胸倉を掴み上げた。
「ふざけてんじゃねぇよ…!」
まるで自分の周りをトラップで埋められるような感覚に、ダルジュは呻いた。ひとつひとつピースが嵌っていくようで、なんだか嫌な寒気がする。
「またあの元おまわりに説教食らえってか。次こそ殺すぞ」
「ハンズスが?」
言われた言葉に英雄が目を丸くした。
前にクレバスがバーでバイトをしている時に、たまたまマージとやってきたのだ。未成年にさせるアルバイトではないと、こんこんと説教された時の鬱陶しさを思い出して、ダルジュは苦い顔をした。
「大丈夫だよ、ダルジュ。今日は英雄がいるじゃん」
悪びれもせずに、クレバスがタイを締めながら言う。そうかと納得するダルジュとは対照的に、英雄の顔色が失せた。
「な…!」
クリスマスにハンズスの説教。そんなのはもうこりごりだと英雄は思った。
あれ?
掠めた感情を、英雄は捕らえ損ねた。
そう、以前にもあったのだ。クリスマスにハンズスに説教されたことが。
あれは、いつのことだったか…。
「皆揃っているようだな」
英雄の回想を絶つようなタイミングでセレンが現れた。肩の雪を払い、コートを脱ぐ。
ダルジュの視線に気付いたのか、セレンは優雅に微笑んだ。
「なにか言いたそうだな?ダルジュ」
「山ほど言いてぇよ。なんだ、あの貼り紙」
「ああ、あれか」
言われて初めて気付いたように、セレンは頷いた。
「見た通りだ」
「答えになってねぇ!」
ダルジュが机を叩く。いつものその光景に、英雄は苦笑いを浮かべていた。
ことことと煮立つシチューを味見して、アレクはふう、と息を吐いた。
料理をして少しは気が落ち着いた気がする。片足で跳ねながら動いたと知ったら、セレンはいい顔をしないだろうが構うものか。休憩時間に皆で食事でもしようと、買い込んだ材料をことごとく置いていったのはセレンなのだ。楽しみにしていたケーキまで、だ。
それを丁寧に飾り付けてしまう自分は、自棄になっているのかもしれない。アレクは吸い込んだ息を全て吐き出すような勢いでため息をついた。作ったところでセレンは戻らないとわかっているのに。なにをしているのか、自分は。
元々アレクにクリスマスや感謝祭を祝う習慣などはなかった。けれど陽気な街の雰囲気に合わせるのはいいことではないか。それに…
言い訳を並べ始めて、アレクはふと気付いた。
それに。
違う、ただ。
窓の外に目をやる。空の色は既に暗く、積もり始めた雪が、街のイルミネーションを滲ませていた。
歳月の隙間を、この雪のように埋めあうものがあるのなら。
いずれ溶けるとしても、忘れるとしても、ただこの日を共に過ごしたかっただけなのだ。
クリスマスシーズンに合わせてガイナスが作ったトナカイの顔を模したパンは、小さな子供や女性に大人気だった。初め、ブタパンと同じ発想でトナカイの鼻からチョコムースを垂らそうとしたガイナスを止めたのはシンヤだった。
「中は普通のクリームにして、鼻はチェリーの煮つけでも載せておけ」
「鼻なのに?赤いよ?」
「そういう歌があるんだ」
そうなんだ、とガイナスはあっさりと納得した。その場を離れようとしたシンヤの袖を引き、歌ってよとねだる。それで歌う羽目になったのを、シンヤは思い出した。
今まさに、ガイナスが鼻歌まじりに歌っているのがその曲だ。
「はい、これ、ありがとうねっ!」
にこにこと笑いながら客にパンの入った紙袋を渡す。時折女性客からプレゼントをもらうと、「ありがとう!」と満面の笑みで受け取っていた。貰っても、返す気はないらしい。
意外に世渡り上手だ、とシンヤは思った。
ずっとあの閉塞した組織の中で育っていたガイナスは世間を知らない。それはシンヤが危惧したところでもあった。現に、自分達がこのパン屋に来てしばらくたった頃、事件が起きた。
近所の悪ガキ共の手によって、マリアの靴が盗まれたのだ。
返して欲しいかとからかう自分達と同じくらいの少年に対して、ガイナスはナイフを抜こうとした。
仕留める気だ。シンヤは間髪入れずにその手を押さえ込んだ。
「ダメだ!」
「なんでさ!」
「絶対に、ダメだ!」
およそ論理的ではなかったと思う。非日常から日常に帰る狭間、その岐路に立っているのだと当時のシンヤは本能的に察していた。結局さんざん殴られて、マリアの靴は海に投げられてしまった。途方に暮れながら、海に入って靴を探した。その最中、ガイナスは泣いていたように思う。
「なんでダメなのさ。めちゃくちゃ痛いよ。体も、顔も」
シンヤは答えなかった。
「なんで…!」
涙を流し、鼻をすすりながら靴を捜すガイナスを見て、シンヤは自分が間違ったことをしたのだろうかと考えた。
それでも、あれからガイナスは変わった気がする。
いいや、随分変わった。クレバスを撃った自分をたしなめる姿は、過去のガイナスからは想像出来ない物だった。
置いていかれたのかもしれない、とすら思う。回想を終えたシンヤは、ガイナスがじっとりとした視線で自分を見ていることに気付いた。
「なんだ?」
「お店終わったよ」
「そうか」
ガイナスが客からもらったプレゼントを両手で抱え込む。持ち上げて、どうにか右手で支えると、残った左手を突き出した。
「はい」
シンヤがその手を凝視する。
「なんだ?」
「なんだ、じゃないでしょ?シンヤからのは?」
あっけに取られるシンヤの前に、さも当然といわんばかりにガイナスが立ちはだかる。
沈黙のせいで、海風が窓を鳴らしているのがよくわかった。
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