DTH3 DEADorALIVE

第5話「柔らかな世界の拒絶」

 ニューヨークに立ち並ぶビルの一角に、アリゾランテの支部がある。乳白色の館内は、床の青い絨毯以外、色を持っていない。
 ラスティンは、その絨毯踏みしめながら歩いていた。歩いてくるラスティンに気付いた信徒達が、慌てて礼の姿勢を取る。アリゾランテの教えの中に、階級はない。しかし、一般信徒から見て、ラスティン達「管理する側」は目上に見えるようだった。
 ラスティンが立ち止まり、返礼のために頭を垂れると、青い絨毯が目に入った。真っ青だ。彼らの教えの中で、聖者は海を渡ると言われている。絨毯の青さは、海になぞらえたのだと聞いた。そこを渡ることで、少しでも清き者に近づくように、と。
 馬鹿らしい。
 ラスティンは、褐色の肌に映える青の瞳をわずかに細めた。口元が皮肉に歪む。
「ラスティン」
 ふいにかけられた声に、ラスティンは顔を上げた。嘲るような笑みを消し、振り返った時にはいつもの柔和な笑顔になっていた。
「どうしました、楊」
 支部の廊下に立った楊がそこにいた。小柄なラスティンと違い、随分と背が高い。細身の体に、神経質に撫で付けられた黒髪が、隙のなさを物語っていた。探るような楊の視線を受けても、ラスティンの笑顔が絶えることはない。
「ダイアナ様はまた探偵を雇ったようだ。我らの話を聞く耳も持たぬ」
 楊が不快そうに告げる。
「そうですか……」
 ラスティンは悲しげに眉を寄せた。
「サラ様も、私の手を拒まれました。悲しいことです」
 本当に、と呟きながら頭を振る。
「ダイアン様の残された遺産は、世界を救う物だと聞く。ご自身で使う気がないのであれば、我らにお任せくだされば良いものを」
「遺産……」
 ラスティンは呟いた。楊の顔を正面から見つめる。
「ダイアン様は何を残されたのでしょう」
「私にはわからぬ」
 顔をそらした楊が、大股に歩き始めた。
「楊、どちらへ?」
「懺悔だ。必要なこととはいえ、ダイアナ様に手荒なことをしてしまった」
「それは……」
 わずかに非難を滲ませて、ラスティンが呟いた。その声に背を押されるように、楊が祈りの間へと入っていく。楊の背を見送ったラスティンの唇が、嘲笑に歪んだ。 
 祈りで何かが変わるものか。
 金と力さえあれば、この世はどうとでも動く。自分は今、教団の幹部にまで食い込んだ。力はもうこの手にある。後は……。
 ラスティンの瞳が暗い光を宿す。
 その視線は、アリゾランテの始祖が残した遺産に向けられていた。


 クレバスの通う高校は、自宅から自転車で20分ほどのところにある。
 近場という立地条件はこういう時にメリットを発揮するものだと、クレバスは妙に納得していた。英雄とダイアナの相性は確認する間でもなく最悪だろう。助けを求める声がかかれば、すぐに家に戻れる準備が必要かも知れない。
 クレバスが教室の入り口でため息をついた時、その背が軽く叩かれた。
「よう、久しぶりだな、クレバス」
「お、ギュート」
 からからと笑う少年に、クレバスは笑い返した。明るい金髪に、そばかすに分厚いふちのインテリ眼鏡。いつものギュートの格好だ。高校でクレバスはギュートと共に行動することが多かった。クラス選択が酷似しているせいもあるだろう。それよりも、不規則極まりないクレバスの生活を見ても、首を突っ込もうとしない姿勢に好感を持っていた。周りから見れば、学年の中でも群を抜いて生真面目で優秀なギュートがクレバスと共にいるのは不思議なようだ。周りの視線がそう物語っている。
「こないだの歴史、代返しといてやったぞ。こう、鼻をつまみながらな」
「お陰で先生に呼び出されたよ。バレバレだって好評だ。サンキュ」
 あはは、と笑い飛ばしながら、ノートを受け取る。お返しとばかりにコーラを渡しながら、クレバスは口を開いた。
「また、ちょっと来れなくなるかも」
「オーケー、任せろ」
 ギュートが親指を立てて見せる。クレバスは少し小首を傾げた。
「ギュートって、いっつもなんにも聞かないな」
「聞いて欲しいなら、どうぞ」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
 話すと長くなるし、話せる問題でもない。クレバスは曖昧に言葉を濁しながら、もうひとつのコーラに口をつけた。
「世界が違うんだと思ってる」
 ギュートがふいに呟いた。告げられた言葉の意外さと声音の真面目さに、クレバスが目を見開く。視線に気付いたギュートが微笑んで見せた。
「クレバスは、いつも僕達とは違うところを見てるよ」
 例えばだ、と言いながらギュートはそばにあった机を掴んだ。
「僕の世界はここだ。だから必死になって勉強してる。振り落とされてたまるもんかってね。でも、クレバスは違う」
 この机がなくても生きていける、と言ってギュートは机を手放した。
「大事なのはこれじゃない、だろう?」
 クレバスは、ただギュートと机を見ていた。図星なのだろうか、言葉が出ない。クレバスが何かを言う前に、チャイムが響くと同時に教師が入ってきた。生徒達が慌てて席に着く。クレバスも流れに押されるように、席に着いた。
 授業が始まり、教師の言葉が流れていく。
 クレバスは上の空で開いたノートを見つめていた。

 世界が、違う……?

 ギュートの言葉が、波紋のように心に広がっていく。
 ここに来ているのは、自分の意思だ。いいや、違う。英雄が望んだ。普通の生活をして欲しいと、それがかつて英雄が残した遺志だった。言葉ではなく、態度で、そして再会してからはっきりと告げられた。
 英雄だけじゃない。ハンズスも、マージも、セレンやダルジュ、アレクも。クレバスの周りの大人達は、クレバスが「普通の暮らし」をすることを望んだ。
 だから、自分はここにいる。
 この先も、ずっと……?
 クレバスは白紙のノートを見つめた。
 大して広くはない教室で、なぜか、ひとり異邦人のような錯覚に陥った。
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