DTH3 DEADorALIVE

 港町を吹く潮風が心地良い。カモメの鳴き声にも、波の音にも大分慣れた。
 小麦粉の入った紙袋を抱えたシンヤは、ふと、海を見た。空の青さを写し取った海が、深くゆらめいている。波間に反射しあう光が眩しかった。
 今日は天気がいい。眼に映る景色は、あの写真そのままだ。
 そろそろ届いた頃だろうか?
 シンヤが仰ぎ見る空に、飛行機雲が一本伸びていた。


 第9話 「だから君の声が聞きたいと思った」


 当面この生活が続くと知った英雄は、どこかあきらめたような表情をしていた。今朝は今朝で、ダイアナのマネージャーが怒鳴りこんできた。甲高くヒステリックに叫ぶ声を分析するに、仕事が大幅に滞っているらしい。小柄な体格を活かし、跳ね回るように抗議するマネージャーに、「だって彼が離してくれないんだもの」と血の気が下がるような言い訳をしたのはダイアナだ。
 お陰さまでたっぷりと説教をくらった上に、スタジオの隅で荷物を持つ羽目になっている。
 今日は雑誌のポスター撮影だとかで、ライトアップされた室内のスタジオはさながら戦場のようだった。カメラマンの指示で、スタッフがソファや花など小道具の位置を動かしている。その中心にいるダイアナは、女王のような勝ち誇った笑みを浮かべていた。
 時折、英雄を見てはにやりと目を細める。「お、その挑発的な表情いいね」とカメラマンがシャッターを切る度に、英雄は静かにため息をついた。
「あら、どうしたのダーリン、浮かない顔ね?」
 小休止の合間に、ダイアナが英雄に歩み寄った。深くスリットの入った黒のナイトドレスが良く似合っている。セットから外れても、まるで世界が彼女を中心に動いているようだった。雰囲気に圧倒される。美人なのだ、本当に。
 英雄はそんなこと気にしたこともないと言うように、ダイアナを見ながら告げた。
「君との未来を思うと涙が出そうだ」
「まあ」
 意地悪くダイアナが笑ってみせる。ところで、と英雄が未だに自分を睨んでいるマネージャーを横目で見ながら言った。
「僕が仕事場にまで入るのなら、婚約者ではなくマネージャーの方が良かったと思うんだがね」
 ダイアナが眼を見開く。
「考えたことなかったわ」
 意外と頭がいいのね、との言葉に英雄はがっくりとうなだれた。
「ところで、坊やは?」
 ダイアナが周囲を見渡す。
「クレバスかい? 今日は別行動さ」
「ふうん」
 どこか納得いかないように、曖昧にダイアナは頷いた。
「どうした?」
「あなたがあの子を巻き込むなんて意外だわ」
「……なぜ?」
「自覚が無いの?」
 ダイアナが眉を寄せる。真っ直ぐな視線に晒されて、英雄の口の中にあった言葉は形にならないまま消えてしまった。
 笑おうとした頬から、力が抜ける。
 瞳に影が差す。曖昧に、それでも笑みをかたどった唇は、どこか寂しさの余韻を残していた。


 パソコンのキーを叩く音が部屋に響く。クレバスはプリントボタンを押すと、席を立って伸びをした。アリゾランテ関連のサイトは、これでいくつ目かもわからない。素直に賛辞する者、詐欺だと言う者、確かに救われたとする声と、なんの役にもたたなかったと呪う声――それら様々なサイトや書き込みを見つけては、地道に収拾していた。
「これが今日の君の仕事!」
 ダイアナに引きずられかけた英雄は、クレバスにそう言い残した。アリゾランテのことを可能な限り調べるようにと。
 公式サイトはもちろん、手に入れられる限りの書物も入手した。本部、支部、その他具体的な地名が出る度に、大きく広げた世界地図にチェックを入れていく。始祖と呼ばれる開祖を始め、ラスティンや楊といった幹部関連の人物関係を把握する頃には、気分転換に淹れたコーヒーがとっくに冷めていた。
 地味な仕事だ、と思う。
 君は何か勘違いでもしていたのかと英雄の声が聞こえそうな気がした。
「だー! もう!」
 八つ当たり気味に背をそらす。伸びた筋肉の感触に癒された。机の上に山積みになった資料、その上に置かれている真っ青なハガキが目に入る。クレバスは、またハガキに手を伸ばした。
『元気でやっているか? こちらは、それなりだ』
 ぶっきらぼうに書かれた一行の手紙。
 シンヤらしい。
 目を細める。
 シンヤ達とは、英雄が戻った日以来、連絡も取っていなかった。元気だろうか?
 声が聴きたい。
 クレバスは、それが当然というように電話に手を伸ばしていた。


 ガイナスは携帯が大好きだ。ストラップにだってもちろんこだわっている。携帯のスリム化も、軽量化も、彼のストラップ群には効果がないようだった。大きさも種類も様々なストラップがぎっちりと携帯に結ばれている。ともすれば、本体を見失いそうな勢いだ。
「……なんだ、それは」
 それが、ガイナスのストラップに埋もれた携帯を一瞥したシンヤのコメントだった。
「かわいーでしょ?」
 理解しがたい、と眉を寄せるシンヤの携帯には、何一つ飾りがついていない。着信音すら設定されていない携帯は、まるで鳴る予定がないようだった。機種だって、ガイナスが買い換える度にシンヤの分も一緒に買わなければ、きっとずっとあのままなのだ。
 あのまま。
 ガイナスはむっと唇を尖らせた。
 この町で暮らし始めて、もうどれぐらいになるだろう。活発に動くガイナスと対照的に、シンヤはまるで新しい世界を作る気配がない。会話はする。時折笑いもする。なのに、決して内に立ち入らせない。それでも以前は心を開きかけていたのに、英雄が生きていると知ってから、また閉じた気がする。
 闇と一緒に生きるの。
 このまんま、ずっと?
 折り合いのつかない獣が自分の心に棲んでいる。そんな風にシンヤは言っていた。
 真っ黒なシンヤの携帯が、まるでその闇を表しているようだ。ガイナスは唇を噛み締めたまま携帯を睨んだ。
 ぽ、と液晶が光りだす。
 音もなく光る携帯は、突然の着信を告げていた。
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