憂鬱な気分になら何度でもなったことがある。絶望というものも、一度くらいは経験したかもしれない。
そう考えると、自分は案外いろんな感情のポケットを持っているのかもしれないなと英雄は考えた。
しかし、今の気持ちに当てはまるものは残念ながら持ち合わせていないようだ。
「聞いていないんだが」
ダイアナの荷物を抱えたまま告げる。潮風が吹く。クルーザーが進む度に、しぶきが弾け飛び、新たな波が生まれた。その振動に酔いそうだ。
「そうかしら?」
ヘアーデザイナーに髪をセットされながらダイアナが言う。
デザイナーの手を通る度、髪が整えられていった。なびく金髪が陽光を受け輝いている。
「……あのな、僕はスーパーマンじゃないんだ。君を守るにしたって、プランってものがある」
こめかみを押さえながら英雄が告げた。
「気分転換になっていいじゃないのよ」
からからとダイアナが笑い飛ばす。英雄はうなだれた。
どうしてこうなのだろう、この依頼人は。出逢ってこのかた、自分のペースになったことがない気がする。
クルーザーのへりにもたれて座り込む。ちらと周囲を伺うと、見事なまでの海原が広がっていた。岸までの距離を無意識のうちに計算する。辿り着けそうもない。
撮影用の機材を積んだもう一隻の他にもいくつか船が見えるが、距離が遠い。ここでなにかあったとしても容易には気づかれないだろう。
常に悪い方に考えるのは自分の悪い癖だ。
ダイアナの言う通り、この景色を楽しんだほうがいいのかもしれない。
けれど。
英雄のいた世界では、考えて考えすぎるということはなかった。
なぜなら、現実は常に最悪の想定を一歩前進させた姿でやってくるのだから。
「あら、なんだかあの船近づいてくるみたい」
ヘアーデザイナーが最後の仕上げのワックスをダイアナの髪に揉みこみながら、声を上げた。
遠方に見えた船のうち、一隻がダイアナ達のクルーザーに近づいてくる。
船体は光すら跳ね返すような純白だった。その姿を認めた英雄の眉が寄る。
クルーザーより二周りほど大きな船は、可能な限り近づいて、動きを止めた。甲板に姿を現したのは、白い装束を身に纏った長身の男。神経質そうな切れ長の目に、束ねた黒髪。中国系の顔立ちに見覚えがあった。
「楊」
ダイアナが不快感をあらわにしながら立ち上がる。
「お久しぶりです。ダイアナ様」
頭上からの非礼を詫びながら、楊は頭を下げた。
その姿を見つめながら、英雄はこの日何度目かのため息を心の底からついてみた。
それみたことか、という気持ちが拭えない。だから言わんこっちゃないというのもセットでつけよう。
もう一度ため息をつき、顔を上げる。
空は青く、海は澄んで、陸はどこまでも遠かった。
キーボードの上をなめらかに指先が動いていく。
吐き出されたデータの中に、めぼしいものはなかった。
自宅に戻ってからの数時間、これにかかりっきりだ。モニターから目を離したアレクは手を持ち上げた。指先を伸ばしたり曲げたり、憩えるようにストレッチをほどこす。肩を回しながらセレンを見ると、始めた時と変わりない姿勢で紙の資料をめくっていた。
「ドウデス?」
「ああ。拠点の分散にムラがあるが、特に興味を惹かれるものはなさそうだ。それより」
情報屋から買ったアリゾランテの資料に目を落としながら、セレンは言った。
「始祖の死後、幹部連中に動きがあったようだ。“遺産”を巡って一悶着あったらしい。勢力図もずいぶん変化している。それでなりふり構わなくなっているらしいな」
「ハア」
アレクが感嘆とも同意ともとれる感想を漏らした。
「コッチはサッパリデス。サラの持ってるコイン、似たモノ探してマスガ、全然。どこの国のデショウネ?」
やはりコイン自体を徹底的に調べなければならないのだろうか。アレクがそうぼやいた時、セレンが否定した。
「それはないな。託されたのがサラだろう? 彼女がわからない方法でヒントが仕込まれているなら、見つけようもあるまい」
「ソレモ、ソウデス」
頷いたアレクは肩を落とした。
行き詰った。八方塞の予感に、沈黙が立ち込める。
秒針の音だけが居間を包む。
「ア!」
急に叫んだアレクが立ち上がった。驚くセレンを指差し、「ソレデス!」と叫ぶ。
「サラにしかワカラナイ方法! オジイチャンの思い出!」
「なに……?」
「ダイアナとサラ、オジイチャンと暮らしてた、言いマシタ! きっとそこにヒントあるデス!」
興奮するアレクの言葉を吟味するように視線を巡らせたセレンが口を開いた。
「……生前に、既にヒントを残していたというのか?」
「多分、ウウン、絶対ソウデス!」
アレクが断言した。顔に謎が解けた喜びが満ちている。
その表情を見ながら、セレンは慎重に思考した。ダイアンが孫娘に遺産を残す。教団のことは気がかりだったはずだ。そして教団もまだ遺産を見つけられてはいない。それは、なぜか。
思い出――?
そんな不確かなものに託したというのか? セレンは驚嘆した。反面、なぜか納得している自分もいる。
「そうだな、検討の余地はあるかもしれない」
手にした紙の束がひどく無意味な気がした。
デショウ!と上機嫌になるアレクに、セレンが笑みを漏らした。
「ナンデス?」
「いいや」
アレクらしいと思ったのだ。
思い出の中にヒントがあるなどというセンチメンタルな思考は、少なくとも自分にはないだろう。
そう。以前の自分には。
馬鹿にされたと思ったアレクが、少しむっとした表情をする。
「なにがオカシイデスカ」
「大したものだと感心したのさ」
どうにも小馬鹿にされている感が拭えない。依然納得がいかないアレクの足元に、子猫が擦り寄る。ミイ、と鳴く子猫をアレクは抱き上げた。心地よさそうに目を細める子猫を見つめながら、セレンが呟く。
「その思考は私にはないからな」
「セレン……」
アレクがセレンの生い立ちを改めて聞いたことはない。けれど、あの中で家族を持っているのはアレクだけだった。それ故の葛藤に苦しんだこともある。しかし今では、やはり家族はかけがえのないものだと思っていた。
アレクはセレンを見つめた。
顔の半分を覆った長い髪のせいで、表情は読めない。
自分がそうなるのかはわからない。けれど、英雄やダルジュがそうであったように、セレンも居場所を見つけて欲しいとアレクは願っていた。
今スグでなくても、きっとイツカ。
ミイ、と子猫が鳴いたことでアレクは我に返った。おなかがすいているのだろう。そう言えば、キャットフードの残りが少なかった気がする。
「ちょっと、買い物行ってくるデス」
手にした子猫をセレンに預ける。
「ああ」
セレンの顔半分に重く掛かった髪の端から覗く唇が微笑んでいる。アレクはつられて微笑んだ。
上機嫌になったアレクが扉を開ける。
廊下の向こうから、五人ほどの若者が歩いてくる。
アレクは端に寄りながら、彼らとすれ違った。
大学生くらいだろうか? 誰も口を開こうとはしない。皆一様に前を見て無言で歩く。その異様な雰囲気に、アレクは気づかなかった。
エレベーターに辿り着いた時、残り香がわずかに漂った。
アレクの眉間に皺を寄せる。
G&Gに来襲したアリゾランテの使徒が同じ香りを身に纏っていた。
その手をねじり上げた感触を、まだ覚えている。
ラスティン……!
驚きを隠しきれない表情で、アレクが振り向く。
集団の一人が、こちらを向いていた。
自分に定められた銃口が、暗い淵を覗かせているのを、アレクは見た。
「セレ……!」
銃声が響く。
アレクの叫びは、セレンに届くことは無かった。
第10話 END