DTH3 DEADorALIVE

第13話 「彼にその価値があるかどうか」

 ――熱い……。
 意識の覚醒は感覚の訴えによって行われた。体が水を欲している。
 押し上げる瞼がひどく重い。
 薄暗がりの中で、アレクは目を覚ました。ぐったりとした倦怠感が全身を包む。体温が高いのだろう。思考が働かない。鈍い痛みが断続的に押し寄せた。
 目が慣れてくると、そこが小さな部屋であることが知れた。
 壁も天井も真っ白だ。やはり白い床に、青の絨毯が引かれている。三メートル四方程度の小さな空間は、独特の緊張感を保っていた。
 壁から生えるように飾られた白くゆるやかな衣を羽織った女性の像の前に、供物を捧げた祭壇が見える。丁度、アレクを見守るような姿勢になっている女性の顔は、全てを悟ったような微笑を浮かべている。控えめに広げられた両手に促されるように、アレクは身を起こした。
 東洋の仏像に見られるアルカイックスマイル、マリアの微笑に準ずるようなその表情は、見る人が見れば、神々しいと思うのかもしれない。
 だが、アレクの胸にはなんの感傷も起こらなかった。上半身を起こしたまま、素早く周囲に目を走らせる。
 左肩に激痛が走る。
 熱に浮かされた頭が、それでも思考する。この状況で思考の放棄は死に繋がることを、アレクは知っていた。
 ココハドコダ。
「おや、お目覚めですか」
 声に振り向く。そこにはアリゾランテの装束に身を包んだ青年が立っていた。白い服に映える褐色の肌。柔らかな金髪に、嘲るように自分を見下ろした青の瞳。自分よりはるかに小さな背丈に見覚えがある。
「ラスティン……!」
 アレクが呻くように声を漏らす。掠れたその声を聞いたラスティンは、満足そうに目を細めた。
「名前を覚えていて下さったとは光栄ですよ。サラ様からお聞きになりましたか」
 答えの代わりに向けられたアレクの厳しい視線の前で、ラスティンは微笑んだ。
「そういえば」
 思い出したようにラスティンが歩み寄る。アレクが身を引いた時には遅かった。ラスティンの足がアレクの左肩を直撃する。
「腕を捻りあげてくれましたっけ」
 言いながら倒れたアレクの傷口を踏みつける。
「ア……グ!」
 アレクの身が痛みにのけぞった。これ以上悲鳴を漏らすまいと唇を噛み締める。苦痛に歪む顔が汗ばんでいく。
 声なき悲鳴は、ラスティンの加虐心を煽った。
「ラスティン様!」
 尚も体重をかけようとした時、入り口から声がかけられた。ラスティンの動きが止まる。そこには若い信徒が立っていた。
「や、楊様がお探しです」
 ラスティンの顔に張り付いていた残酷な笑みが消える。彼が振り向いた時、そこには温和な瞳を宿した敬虔な聖職者がいた。
「わかりました」
 にこやかに告げたラスティンがアレクから身を離す。体を強張らせていたアレクは、ぐったりと崩れ落ちた。荒い息が室内に響く。
「ラスティン様、彼は」
 扉を閉め、鍵をかけるラスティンに若い信徒が疑問を呈した。
「穢れた者です。告解の為、この懺悔の間に入れています」
「怪我を」
「罪の報いを受けたのですよ。憐れみは彼のためになりません」
 それ以上問いかけが続かないことを、了承とみなし、ラスティンはその場を後にした。
 厳かな歩みで海を渡る彼の足跡には、アレクの血が滲んでいた。


「なんなんだ、一体!」
 ハンズスの抗議を物ともせず助手席に放り込むと、ついでハンズスの医療鞄も投げ込み、運転席に滑り込んだセレンは慣れた仕草でアクセルを踏んだ。猛スピードで飛び出す車に、ハンズスが思わず息を呑む。
 憤慨のために赤くなっていた顔色を蒼白に変え、しっかりとシートベルトを握り締めた。体が強張っていくのを感じる。その様子を見ようともせずに、セレンはハンドルを切った。タイヤを軋ませながら路地を曲がる。
 ハイスピードで流れていく景色を呆然と見ていたハンズスは、それでも次第に落ち着きを取り戻していった。
「……医者が、必要だと言ったな。誰か怪我をしたのか」
 フロントガラスを見ながら口を開く。
「まさか、アレク?」
「お前には関係のないことだ」
 セレンが淡々としたいつもの口調で答えた。
 無理矢理連れてきておいて、その台詞はないだろう。ハンズスは嘆息すると、シートに身を沈めた。
 ビルや信号が瞬く間に流れていく。
 しばらく無言で景色を眺めていたハンズスが、ぽつりと呟く。
「……どこに行くんだ?」
 途端にブレーキが踏まれ、車が急停止する。勢い、ダッシュボードに突っ込みそうになったハンズスは、シートベルトのお陰でそれを免れた。あと数ミリでキスできる距離のダッシュボードを信じられない心持で見つめる。冷や汗が静かに額を伝った。
「降りろ」
 そっぽを向いたセレンが、にべもなく告げる。
 ハンズスは二、三度瞬きした。ずり落ちた分厚いメガネを戻しながら、まさか、と思う。けれど、聞こえた言葉には明らかに不快さが滲んでいた。
「まさか――」
 ハンズスの言葉に、セレンの肩がぴくりと動く。
「当てもなく飛び出したんじゃあるまいな」
 セレンは答えなかった。ハンズスから顔をそらし、窓の向こうの景色を眺めている。
 まるで拗ねている子供のようだ。
 イタズラをしてしかられたアリソンを思い出し、ハンズスは無意識に微笑んでいた。
「笑うな。趣味が悪い」
 ガラス越しにその表情を見咎めたセレンが髪をかき上げた。どこかバツが悪そうなのは気のせいか。
「悪かった」
 ハンズスは素直に詫びた。
「でも、あんた変わったな。なんか嬉しいよ」
「お前に祝えと言った覚えはない」
 セレンはハンドルにもたれると、手の中でずっと握り締めていたメッセージカードを改めて見つめた。
「それは?」
「ラブレターさ。素敵だろう」
 セレンがカードを投げて寄越す。受け取ったハンズスは、それに目を通した後、なんとも言えない奇妙な顔をした。
 あちこちが血にまみれたメッセージカード。
 そこに書かれていたのは、たった一行。
 けれどセレンを激昂させるには十分な力を持っていた。

『彼に一セントの価値もあるかどうか』

「人のパートナーをつかまえて、取引の材料にも足りないと言うとは――面白い」
 その首、必ず刎ねてやる。
 セレンは不敵に微笑んだ。
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