街に灯った明かりは、夜の闇を拒絶していた。
住宅街のせいだろう、人通りはほとんどない。スペードを始めとする子犬達の呼吸と、二人の足音だけが響いていた。
カトレシアはダルジュの背中を見つめた。
いつもと変わらない、自分の数歩先を行く後姿。無造作に束ねた髪が、動きにあわせて上下する。その背を見つめながら、カトレシアは目を細めた。
前にも、こんな気持ちになったことがある。六年ほど前だろうか、ダルジュと初めて出逢った頃だ。英雄達と知り合って、その最中、行方不明の兄から連絡があった。不吉な予感を抑えきれずに英雄に助けを求めた時、そこにダルジュも同行したのだ。
フラワーショップの店員には不釣合いなほど大きな銃は、随分ダルジュの手に馴染んでいるように見えた。
疑問が頭をよぎったのは、その時が初めてだった。
言葉は乱暴で態度も悪い。けれど、ジャックがよく懐いている。だから、きっと悪い人ではないのだとカトレシアは思っていた。
ぶつくさ言いながら花を束ねる、その雰囲気が好きだった。
なのに銃を手にしたダルジュは別人のようだ。
この人は――?
カトレシアは、ダルジュにもうひとつの顔があるような気がした。
あの時、結局兄は戻ってこなかった。ただ、死んだのだと父から聞かされた。今までうっすらと思っていたことが確認されただけだ。そう思っても、涙が溢れた。
「ありがとう、ございました」
公園のベンチで礼を告げると、ダルジュは、どちらかというと鬱陶しそうな顔をした。慰めることも、ハンカチを差し出すこともなかったが、それでもカトレシアが泣き止むまでそばにいた。嬉しかった。
そう、嬉しかったのだ。
それから何度か会うことがあった。
カトレシアが店に行ったり、ダルジュがやってきたり。
ふらりと現れては、ぶっきらぼうに「茶、飲みに来た」と告げる。
その度に、カトレシアは笑顔でダルジュを招き入れた。
逢瀬と言うにも満たない時間だったように思う。
カトレシアがとりとめもなく話す言葉を、ダルジュは黙って聞いていた。時に寝入ることもある。シベリアンハスキーであるジャックの巨体をソファ代わりにすると、細身を犬に沈めているようにも見えた。
忘れもしない。その日もダルジュはカトレシアの家にやってきた。
特に理由も言わず、話すわけでもなく、普段通りだったにも関わらず、カトレシアは違和感を感じた。ダルジュの雰囲気が違う。
怒っているわけでも、嘆いているわけでもない、どこか張り詰めた空気がダルジュの身を包んでいた。
「なにか、ありましたか?」
カトレシアが小首を傾げる。ダルジュは「別に。なんもねぇよ」と取り合わなかった。
やがて二十二時を過ぎた頃、ダルジュの腕時計についたアラームが鳴り出した。ダルジュの体がぎくりと硬直する。鳴り続けるアラームを止めようともしない。カトレシアがダルジュに向き直る。長い金髪がさらりと揺れた。
「あの、お約束があるのでは……?」
ダルジュは強張った顔のまま、答えようとしなかった。
しばらくそのまま押し黙り、やがて無言のままに立ち上がった。
「あ、お見送りしますわね」
カトレシアも立ち上がる。途端に後ろから抱きしめられた。
腕の力が強い。痛いほどだ。
「ダ、ダルジュさん……?」
かあっと頬に赤味が差すのがわかった。高鳴る心臓が早鐘のようだ。
ダルジュの歯ががちがちと鳴る。小刻みに震えているのがよくわかった。
「……死にたくねぇ」
消え入るような言葉は、それでも耳に届いて。浮かれかけていたカトレシアの心が、静かに冷めていった。
ああ、この人は戦いに行くのだ。
漠然とそう思った。正しいかどうかはわからない。
それでも、ダルジュの手に触れた。ダルジュの体がびくりと揺れる。
「私は、ここでお待ちしていますから」
その言葉に、腕の力が緩んだ。ダルジュが唇を噛み締める。
「行きたくねぇ」
「はい」
「死にたくねぇ」
「はい」
「……なんでも“はい”なんて言うな」
「……だって、ダルジュさん」
それでも行こうとしている、とカトレシアが呟いた。ダルジュの瞳が見開かれる。
カトレシアに触れていたダルジュの手が、ゆっくりと拳を作った。
もう一度だけ強くカトレシアを抱きしめて、離れる。
「お待ちしています」
「ああ」
振り向かずにカトレシアは告げた。瞳を閉じる。背後でダルジュの足音が遠ざかる。
そのまま彼女は、そこで祈りを捧げた。
ダルジュは、その場所に帰ってくるのだと信じた。
ダルジュの帰宅を告げたのは、セレンからの電話だった。連絡を受け、病院へと駆けつける。
峠を越したというダルジュは、病室のベッドに横たわっていた。顔色がひどく悪い。脈拍を示すグラフだけが、かろうじてその生存を伝えていた。
「ダルジュさん……!」
カトレシアがその手をとった。うっすらと感じる体温は、あの時の熱さとは比べ物にならなかった。
瞳に溢れる涙が零れる前に、セレンがカトレシアを呼んだ。涙を拭き、顔を上げる。
「なにが、あったんですか」
カトレシアの問いに、セレンは答えなかった。
「この子は、なにか言ったか?」
「いいえ」
ならそれが答えだ、とセレンは告げた。
「この子を、信じられるか?」
セレンの問いは唐突で、要領を得なかった。
「なにを……」
「なにも聞かずに、それでも」
信じていられるのかどうか――。
セレンが鋼糸を手の中で躍らせる。返答次第では、彼女はどこかに消えたとダルジュに告げることになるだろう。
誰かに心許す、その瞬間が自分達には命取りになるのだ。
セレンの気迫に押されてか、カトレシアは即答できなかった。
それでも、自分を抱きしめていたダルジュの感触を思い出す。
あの時、間違いなく彼は震えていたのだ。
「私は――」
死にたくない、と凍えるように言った、この人が愛しいと思った。
「この人の、帰り場所になりますわ」
きっと、と控えめに告げるカトレシアを見て、セレンが微笑んだ。
「無鉄砲なお嬢さんだ」
「よく言われます」
カトレシアは心から微笑んだ。
信じている。
本当だろうか。
何も聞かずに、与えられるものだけを真実として、本当に生きていけるのだろうか。
彼の中の自分が、価値あるものと信じて。
疑念は降り積もる。いくらでも。
心を掠める猜疑は否めない。
カトレシアの足が止まる。
気配に気付いたダルジュが振り向いた。
「どうした?」
夜の空気がひやりと頬を撫でる。一瞬の迷いは、風に流された。
カトレシアが、いつものように微笑む。
「いいえ、なんでもありませんわ」
第16話 END