DTH3 DEADorALIVE

第17話「伝言」

 子供の頃、どんな子だったかと言われれば、クレバスはとまどうしかなかった。いい子、とは言い難かった気がする。冷めて擦れた目で世界を見ると、濁りきっていた。絵本なんて読んだこともなくて、仮に目を通したところで心沸くとも思えなかった。
 英雄に、会うまでは。
 彼はクレバスにヒューマニズムや人間の素晴らしさ、夢の素敵さなんてまるで説こうとしなかった。生活は真逆に近い。それでクレバスが何を得たのかと言われると、これまた困ってしまう。それは言葉にするには頼りなさ過ぎた。
 それでも、覚えていることがある。
 初めて触れた絵本は、そう、図書館でセレンに手渡された「オオカミ少年」。「あの子の未来が書いてある」と言われて興味を持った。家に持ち帰って、英雄と読んだ。二人の感想は共通。「読むんじゃなかった」
 あれからたくさんの本に触れたけれど、なぜだろう、あの本のことが一番印象に残っている。英雄が「どう読めばいいのかわからない」という風に、たどたどしく声に出して読んでいたこと。時々、見上げるクレバスの視線に咳払いをしては、「こういう時は本のほうを見るもんだ、クレバス」とバツが悪そうに告げたこと。
 覚えている。昨日のことのように鮮明に。
「絵本、か」
 クレバスはぽつりと呟いた。
「そうです」
 サラがくすくすと笑った。肩くらいまで伸びた金髪がさらりと揺れる。
「あんまり私が絵本が好きだからって、祖父は自前の絵本まで作ってくれたんです。二人の小さな姉妹が、海を渡るお話。大好きで、大好きで、何度も読んでしまうくらい」
 祖父のダイアンがその話を読み始めると、サラは決まってダイアンの膝の上にいた。ぽかぽかとあたたかい陽射しと、祖父の穏やかな声は、サラにとって宝物だったのだ。
 ああ、懐かしい――
 サラは目を細めた。
 と、クレバスとセレンが目を丸くしていることに気付く。
 サラの大きな瞳が瞬いた。
「あ、あの、なにか……?」
「“海を渡る”という行為は、奴等の教義で聖者を示す」
 セレンがさらりと告げた。
「あ」
 サラが口を押さえる。確かにそうだ。
「金貨と――銀貨、だっけ。それだけじゃ辿り着けないわけだ」
 クレバスがぽんと手を叩く。
「その話、詳しく覚えてる? サラ!」
 それまで冷静に話を進めていたクレバスが、興奮のためか、少年の顔に戻った。湧き上がる好奇心を押されられない。
 クレバスの瞳が真っ直ぐにサラを見る。
 サラは、受け止めきれずにうつむいた。かあ、と顔が火照っていく。
「どうしたの、サラ?」
「い、いえ、なんでも……」
 不思議がるクレバスに、サラが手を振ってみせる。
 その光景を眺めながら、セレンは思い出していた。行方不明になる前に、アレクが言っていた言葉。
『サラにしかワカラナイ方法! オジイチャンの思い出!』
 お前の考えが正しかったわけだ。
 セレンの唇が微笑む。今はこの場にいないパートナーに向けての、賞賛の笑みだった。


 女という生き物は、話し続けなければ死ぬのだろうか。
 そんなことを英雄は考えた。
 あれからダイアナの口が休むことはなかった。薪のはぜる音と、波の音、ダイアナの声がずっと耳に入る。
 無人島も意外に賑やかだ。悪くないかもしれない。
 時折、「ちょっと聞いてんの!」と蹴りが入らなければの話だが。
「明日以降のことも考えると、体力を温存しておいたほうがいい」
 英雄が言うと、ダイアナは鼻で笑った。
「明日は、明日はって繰り返して、最後に“やっぱり好き勝手やっておけば良かった”って思うのは嫌なのよ」
「自滅の道を早めることはないと思うが」
 英雄が嘆息しながら火に薪をくべる。一瞬揺らいだ炎の先に、船舶の影が見えた気がした。英雄の瞳が細められる。
「それでね、あの子ったら、昔はあたしにべったりで。祖父の作った絵本があったんだけど、何度も読まされてうんざりよ。二人の姉妹が海を渡るお話。馬鹿みた――」
 自分の言葉に、ダイアナが動きを止めた。
 まさか、あの絵本が。
 髪をかき上げる。今ほど煙草を吸いたいと思ったことはなかった。
「ねえ、ちょっ……」
「静かに」
 英雄がダイアナを制した。言うが早いか、足で焚き火に砂をかける。途端に辺りが暗闇に包まれた。
 波の音に混じって、エンジンの音がする。船が近いのだ。
「ちょっと、なんで火を消すのよ」
「こんな夜中だぞ、どうして味方だと思うんだ」
 だから静かに、と英雄の言葉半ばで、二人の位置にライトが照らされた。咄嗟に英雄がダイアナを背後に庇う。ダイアナは驚いて英雄の背を見つめた。
「こらぁ! あんたら旅行者か! ここはキャンプ禁止だっちゅーに!」
 漁船から割れたスピーカーで野太い声が怒鳴る。一瞬耳を塞いだ英雄は、片目をつぶった。
 船の主は、地元の漁師のようだ。どうやら自分達を無断でキャンプを行った旅行者だと勘違いしているらしい。
 バツが悪そうに頭を掻く。
「すみません。彼女がどうしてもって」
「ちょっと、あたしのせいなの!?」
 ダイアナが英雄の肩を掴む。英雄はわざとよろけた。
「ね、気性の激しい人で。断れなくって」
「ちょっと!」
「はぁー、えらいべっぴんさんだな」
 ダイアナを見た漁師が、ため息をついた。その声が耳に届いたのか、「当然よ」とダイアナが英雄から手を離した。
「え! なになに! 美人!?」
 ばたばたと運転室から人影が飛び出した。
「美人だってさ、シンヤ」
 シンヤの裾を掴んだガイナスが、顔をのぞかせる。ライトで照らされた英雄達の姿を視界に収めるや否や、ガイナスは遠慮なく顔を歪めた。
「げ」
「その声……」
 英雄が目の上に手をかざす。こちらからでは逆光になっていて、船上の人間の姿がよく見えなかった。
 それでも、それが誰なのか英雄にはわかった。
 相変わらず英雄を見下げるような視線のせいかもしれない。
 侮蔑と怒りが肌を刺すようだ。
「……シンヤ……!」
「あんたか」
 シンヤがひどく冷めた声で答える。
 海は、黒くうねっていた。
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