DTH3 DEADorALIVE

第19話「この胸を過ぎ行くもの」

 礼拝室に柔らかな朝日が差し込む。
 頬に温もりを感じて、楊は顔を上げた。
 結局一晩中祈っていた。跪いた足は、すでに感覚がない。にもかかわらず、楊はゆっくりと立ち上がった。
 束ねられた黒髪が揺れ、隙のない切れ長の瞳が祭壇に向けられる。祭壇の向こうには、聖母にも似た微笑を浮かべた像が全てを受け入れるように両手を広げていた。背後から差し込む朝日が、後光にも見える。
 楊は目を細めた。
 祈っていた。
 何に。
 何を。
 始祖の残した遺産、世界を救う鍵。始祖の孫娘たちは、どうあってもそれを渡そうとはしなかった。
「交渉は決裂しました。我々の再三の要請に、彼女達は耳を貸さなかった。残念ですが、我々に残された手段は、力しかないのです。それも叶わなければ、――封じてしまう、しか」
 ラスティンがためらいがちにそう口にした。その言葉通りのことを、自分は行った。
 目を閉じればすぐに、ダイアナ達の船が沈む様が浮かぶ。
「間違った志の者に、遺産が渡るよりは良いと思うのです」
 我々の信仰のために――
 己の信仰に、なんら恥じることはしていない。楊は確信していた。
 懺悔をしたとしても、それは戒律を破り力を使ったことに対してだった。
 それだけだ。
「楊の読む絵本、棒読みでつまらないわ」
 幼い頃、多忙な始祖に代わり、よく姉妹の面倒を見た。人付き合いの苦手な自分にとっては、大仕事だったように思う。ダイアナは口を開けば文句ばかり、サラは中々楊に近づこうとはしなかった。
 それでも、始祖の作った本を読む時だけは、二人とも大人しく聞いていたのだ。
「今すぐ消えて」
 いつから互いを否定するような会話しかしなくなったのか。もう楊には思い出せなかった。
「……ダイアナ様、サラ様」
 楊は己の掌を見つめた。
 幼い頃に手を繋いだ、その感触が、今も残っている気がした。

 礼拝室を出ると、すぐそこにラスティンがいた。
 アリゾランテ特有の白の衣装を身に纏い、廊下に設置されたソファに浅く腰掛けている。手にした本は何度も読まれたのか、ページの端が擦り切れていた。それが、彼らで言うところの聖書に該当するものだと、楊は一目で理解した。
「ラスティン」
 気だるげにページを捲っていたラスティンの指先が止まる。
 真剣に文字を追っていた目が、見上げられた瞬間に柔らかく微笑む。
「楊」
 穏やかな仕草で本を畳むと、ラスティンはゆるやかに立ち上がった。ゆったりとした衣の裾が揺れる。
「あなたが私を探している、と聞いたのですが」
「私が?」
 楊の反応を見て、ラスティンは内心舌打ちをした。
 やはり嘘か。
 昨夜、アレクを踏みつけた際に声をかけてきた若い信徒。名をなんと言ったか――記憶を探る。
「まさか、それで一晩ここで……?」
 楊の声に追跡は遮断された。気配も見せずに、ラスティンはにこりと微笑んだ。
「まさか。礼拝室に入られたと聞いたので、どうせ一晩懺悔されるのだろうと、朝になってここに来たのですよ」
 そう言って、楊の手を取る。
「罪は、清められましたか」
「清められる罪などない」
 楊は毅然と答えた。
「だが――必要なことだった」
 狂信者め。ラスティンの唇が歪む。
 口から出たのは裏腹の言葉だった。
「ダイアナ様のことは聞き及んでいます。……つらかったでしょうね。私の方も」
 そこでふいにラスティンは言葉を切った。
 言いにくそうに、唇を噛む。
「ラスティン?」
 楊が怪訝な顔をした。
「サラ様にはお会いできませんでした。ボディーガードを雇ったとかで、行方も知れません。ですが」
 彼らの片割れを手に入れました。
 ラスティンは心の中で呟いた。唇が愉悦に歪む。瞳が邪悪な光を放ったことに、楊は気付かなかった。
「もう一度、私にお任せいただけますか? もう一度お会いすれば、きっと、サラ様もおわかりくださると思うのです」
「何を……」
 楊の声に非難めいた響きが混じるのを、ラスティンは聞き逃さなかった。一歩前に進み出て、言葉を重ねる。
「罪を犯すことが怖いのではありません。ただ、私はただ。わかっていただきたいのです。我らの気持ちを」
 真摯な瞳で訴えかける。ラスティンの勢いに、楊は息を呑んだ。
 遠い思い出が脳裏をよぎる。
 あの姉妹と、もう一度わかりあう。
 それは甘美な幻想だった。
「ラストチャンスだ」
「ええ」
 ラスティンは祈りを捧げた。楊もそれに続く。
「神のご加護を」
「神のご加護を」

 ラスティンはうっすらと目を開いた。目の前に祈りを捧げる楊の姿が見える。
 始祖の残した遺産、そのヒントすらまだ掴んでいない。
 ダイアナを失った今、あの少女を逃すわけにはいかなかった。
 彼女が全てを見通す聖女ではないからこそ、有効な手段がある。
 あの薄汚れた黒猫で済むなら、安いものだ。
 薄く微笑む唇は、凶悪な笑みを描いていた。
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