クレバスは早朝の街を、気持ちの整理のつかないまま歩いていた。
セレンは車に乗っていけばいいと言ったが、とてもじゃないがそんな気分にはなれない。歩いて帰ったほうがマシだった。
あの場でセレンに反論できなかった。そんな自分が不甲斐ない。
「くそ!」
怒りに任せて道端の小石を蹴る。
瞬間、高級車が猛スピードで曲がり角から現れた。スピードのため、不自然なほどに曲がったタイヤは、それでも音を軋ませることはない。
その後部座席にいる人間に、クレバスは見覚えがあった。
「サラ!?」
驚いている合間にも、見る間に車は遠ざかっていく。あの方向、アリゾランテの支部に向かっているのだ。
駆け出そうとしたクレバスの耳に、タイヤの軋む高音が聞こえてきた。カーブに横滑りで姿を現したのは、なめらかな白の車体に鮮やかなグリーンの文字が刻まれたG&Gの配達用ワゴン、もとい、ダルジュの車だ。
「ダルジュ!」
クレバスの姿を認めたダルジュは、わずかに減速した。開け放たれたサイドのドアから、クレバスが飛び込む。本来なら後部座席があるはずの場所は、荷物を積むために座席が取り除かれている。その広いスペースに、クレバスは転がり込んだ。その姿をバックミラーで確認したダルジュが吼える。
「こんなとこでなにしてやがる!」
「そっちこそ!」
「ちっ」
ダルジュはクレバスの問いに答えることなく、アクセルを踏み込んだ。瞬間、クレバスがバランスを崩す。ダルジュは構うことなくハンドルを切った。
「どこ行くつもりなんだ、あいつら」
忌々しそうにダルジュが呟く。
「多分、支部だよ。この先にある」
思い切り床に頭を打ちつけたクレバスが、頭をさすりながら答えた。まだ目の前に星がちらついている。車の中で衝突死なんて、冗談じゃない。
「さっきまで、いたんだ。セレンも」
その名を聞いたダルジュの顔色が変わる。傍目にもわかるほどに、頬がひくついていた。
「おい」
ダルジュがぞんざいにクレバスを呼ぶ。
「車の運転は?」
「免許ないよ」
クレバスは首を振った。
「できるかできないか聞いてるんだ」
いらついたように叫ぶ。クレバスは頭をさすっていた手を止めた。まだ目尻に涙が浮かんでいる。
「セレン仕込み」
「よし」
言うが早いか、ダルジュがハンドルから手を離した。クレバスが慌てて後ろから身を乗り出す。それと同時に、ダルジュは小柄な体を滑らせ、サンルーフから身を乗り出した。
途端に風圧が押し寄せる。無理もない。車は走り続けたままなのだ。
ダルジュは一瞬顔をしかめた後、両手を軸に体を屋根の上へと押し上げた。使い古したスニーカーで、屋根に乗る。身を切るような冷気が心地良かった。
非常時への焦りより先に、湧き上がる高揚感に舌で唇を舐める。
「ミスるんじゃねーぞ」
「ダルジュもね」
運転席に身を収めたクレバスが答える。横目でダルジュの様子を盗み見て、すぐに視線を前に戻す。前方を走る車の中で、カトレシアが不安げに振り返ったのが見えた。
なんでこんなことに、なんて訊ねている余裕もない。
ハンドルを握るクレバスの手に、汗が滲んだ。
車のエンジン音と心臓の鼓動が重なる。見えるはずのないダルジュの行動が、手に取るようにわかった。
ダルジュが、ジーンズの後ろに無造作に突っ込んでいた銃に手を伸ばす。
車が小石を弾く。そのわずかな衝撃でダルジュはバランスを崩した。サンルーフの枠を掴んで姿勢を立て直す。
「おい!」
「ごめん、悪かった!」
クレバスは正直に詫びた。
ダルジュの舌打ちが聞こえてくるようだ。間違いなくしているだろう。
「ふざけんなよ」
毒づいたダルジュが、再び銃に手を伸ばす。馴染んだグリップをしっかりと握り、目の前の車に向けて構えた。
「どいつもこいつも」
カトレシアが振り返る。
その視界に、彼女の知らないダルジュがいた。
アレクはセレンのマンションにいた。
宛がわれた部屋で、静かにライフルケースの表面を撫でる。一度開け、よく手入れされた銃を眺めた。
『あの方は一途なんです。どうか、許してあげて下さい』
サワヤの声が蘇る。困ったような表情をしたアレクは、そのままケースを閉じた。
セレンは冷めた顔で部屋を眺めていた。
アレクは一度立ち寄ったようだ。気配の余韻が残っている。
「またライフルでも持ち出したか」
学習能力のないヤツだ、と呟く。半開きになったアレクの部屋には、ライフルケースが残されているのが見えた。
セレンが眉を顰める。
途端に鳴り出した電話に、セレンは無造作に出た。
「なんだ」
「セレンさん、やっぱり帰ってたネ! さっきアレクさん通たよ!」
マンションの管理人の声が受話器の向こうから響いた。
「いつもなら管理人室で挨拶するね。でも今日に限ってシカトで歩いていくから、私声掛けたね! 猫どうするよて!」
「どうすると?」
セレンがソファに身を沈める。
「どうもこうもないね。アレクさん、一度振り返ったけど怖い顔してたヨ。私殺される思た」
驚愕といって差し支えない表情をしたというアレクは、恐ろしいものを見るかのように子猫を凝視していたのだと言う。
「忘れていたな」
「エ?」
セレンの唇から漏れた呟きを、管理人が聞きとがめた。
「なんでもない、独り言だ。それで、何の用だ」
「だから、猫! どうするね!」
「ああ」
セレンは興味なさそうに頷いた。
「アレクさん帰ってきた。私もう面倒みなくて良い。違うカ?」
帰ってきた。
管理人の言葉に、セレンは視線を巡らせた。
殺伐とした気配の余韻が、部屋の片隅に残っている。だが、アレクの姿はない。
この状態でも、帰ってきたというのだろうか。
「まあ、そうとも言うかもな」
じゃあ猫、という管理人の言葉を制して、セレンは言った。
「好きにしろ」
そのまま通話を一方的に切ると、受話器を放り投げた。
静かだ。
眠気に誘われるように目を閉じる。アレクの残した剣呑な気配すら、セレンには居心地良く感じられた。
第21話・END