DTH3 DEADorALIVE

 町の本屋で買ってきた地図を見ながら、クレバスは眉根を寄せていた。
「これじゃあ、縮尺が大きすぎてわかんないな」
 もっと、こう、あの記念碑の周りだけでいいんだけどと一人ごちる。そんなものがあるとすれば、アリゾランテの支部のお土産コーナーぐらいだろう。確かそう遠くない場所にあった気もするが、姿を見せるのはリスクが大きすぎる。
 サラは、クレバスの邪魔をしないよう少し距離を保って岩に腰掛けていた。海風に時折スカートが揺れる。
「周りだけ、ですか?」
「そう」
 ほら、とクレバスが記念碑を指差す。
「黒い指先」
 その手が、すっと記念碑の影に向けられた。
「あ」
 驚いたサラが口元に手をやる。胸まである金髪がさらりと揺れた。
「仮説の域を出ないけど、ね。もしかしたらって話」
「じゃあ、影の先を見ればいいってことですか?」
 岩陰を見通そうと背伸びしたサラに、クレバスは笑ってみせた。
「影は太陽の位置によって移動するじゃん? 多分、条件がもうひとつ。時間が必要だと思うんだよね」
「あ……」
 己の無知さを恥じ入るように、サラは俯いた。
「そう、ですね」
「そう」
 だからサラに絵本の話を頼んだんだ、とクレバスは言った。
「言ってたよね。岬の灯台にしまった宝物を取りに行くとき、灯台は海の真ん中で溺れていた。手を取り合って、海を渡る二人。その絵がすごく好きだったって」
「ええ」
 サラが頷く。
「そういう時間があるんじゃないかな、ここにも。海を渡れる時間ってヤツが」
 クレバスが背後の海を振り返った。近場に小島が見えるが、やはり海に囲まれている。いつだったか、テレビで見たことがある。干潮になれば、ああいう場所に向けて道ができるのだ。音もなくしずしずと海が割れ、道が現れる。その光景がクレバスの心に焼きついていた。
 あの時隣にいたのは、英雄だったかアレクだったか。もう覚えていない。
「海を渡れる時間……」
 サラは呟いた。言葉が潮風に乗り、頼りなく溶けていく。
「時間がわかれば後は簡単。その時の太陽の位置を調べて、影の位置の検討をつけて、うまくいけば遺産とご対面、と。仮説自体がハズレだったらやり直しだけどね」
 役に立たないと判断した地図を畳みながら、クレバスは言った。サラの視線を感じて、顔を上げる。
「なに?」
「いえ。クレバスさん、すごいなって」
 自分よりふたつみっつ上なだけだろうに、サラは正直な感想を述べた。
「どうやったら、そんな風にできるんですか?」
「そんな風にって?」
「なんていうか……さっと判断して、次、次って前に進むっていうか……」
 サラの言葉に、クレバスは怪訝な顔をした。
「だって進むしかないじゃん」
「それは、そう……ですけど」
 なんだと言わんばかりに伸びをする。
「あー、おなか空いた。サラは?」
「えっ」
 屈託のない笑顔で告げられてとまどうサラをよそに、お腹が小さく返事をした。途端にサラの顔が赤面する。
「じゃあ、ちょっとブレイクしよ。朝食ついでに町の人に海の話でも聞ければいいし」
 決まりだ、とクレバスが即決する。手を引かれ、サラはためらいがちに歩き出した。


『ここは私の始まりの地であり、悟りの場所である』
 文言として刻まれることのなかったその言葉は、楊の心に染み付いていた。アリゾランテの始祖、ダイアンの言葉。彼の幼い孫娘達の面倒を見るために、何度この場所に足を運んだかわからない。
 楊はアリゾランテの記念碑の前に立っていた。
『我らの祈りと平和を永久に』
 今朝の惨状を考えれば、この文言がひどく悲しく見えた。
「始祖よ」
 楊は膝をついた。祈りの姿勢のまま、深く頭を垂れる。
 こんな場所に来ている時間はない。
 それはよくわかっていた。けれど、途方に暮れ、もう一度原点を見つめたくなったのだ。思い出のこの場所で。
 行方不明だったダイアナに加え、サラの行方までわからなくなってしまった。見張りでつけておいた信徒の話によれば、バイクで急に出て行ってしまったらしい。
 もし、アリゾランテに恨みがある者であれば――
 ラスティンの言葉が脳裏をよぎる。その度に、楊の体温が下がっていった。
 手荒な方法は、確かに自分も取った。けれどそれは、教義のためだ。望んでのことではない。だが侵入者は別だ。喜んであの二人に害を加えるだろう。
 なぜ、あの姉妹はそれをわかってくれないのか――
 理不尽な怒りにかられた楊が顔をあげる。
 不意に、視界に光が入った。
 目を瞬かせる。陽光ではない。
 岩場とは全く質の異なる、金髪がちらりと覗いたのだ。
「サラ様……!」
 楊は思わず声を出した。
 その声が届くか届かないかの距離、少し離れた岩場に、サラの姿が見えた。傍に似たような年齢の少年の姿も見える。
「あれは……!」
 楊は絶句した。見覚えがある。ダイアナが依頼した探偵の事務所にいた少年だ。その少年が手を差し伸べる。手を取ったサラは、岩場の影に吸い込まれるように消えていった。
 楊は呆然とそれを見ていた。
 幻でも見たのかと自分をいぶかしんだ。
 否、幻ではない。ここは始祖縁の奇跡の地なのだ。
 楊がアリゾランテの記念碑を仰ぎ見る。記念碑は、威厳をもってそこにあるように思われた。
「神よ……!」
 膝を折り、手を組む。彼は長い長い感謝の祈りを捧げた。


 洞窟の入り口は岩場の影に隠れるように存在していた。
「大丈夫? 足元滑るから気をつけて」
 言いながらクレバスがサラの手を取る。
「は、はい」
 サラが恐る恐るといった風情で足を踏み出した。
「仮説大当たり、かな。うまくいきすぎて怖いけど」
 海辺近くのサンドイッチ屋のオヤジがおしゃべりで助かったとクレバスは回想した。恋人同士か? どこから来た? という矢継ぎ早の質問攻勢には辟易したが、おかげで必要な情報は手に入れることができた。
「ん?」
 クレバスが鼻を押さえる。
「どうしました?」
「なんかオイル臭い。ライターみたいな」
 潮の香りに混じって、わずかに異臭がした。サラも鼻をきかせてみたが、わからなかった。
 誰か入った……?
 クレバスの視線が、油断なくあたりをうかがう。
 壁面も床も濡れていて、何者かが先に通ったとしても痕跡を残すことはない。耳を澄ませたところで、水の滴る音以外しなかった。
 気のせいかもしれない。
 そう思いながらも、クレバスは他の人間の気配を感じていた。チリチリと肌が焼けるような感覚がする。覚えがある、この感じ。戦いの場所が近いに違いない。
「クレバスさん?」
 サラが不安げにクレバスを見上げた。
 戻るか?
 クレバスは今しがた降りてきたばかりの入り口を見る。
 自分一人でサラを連れて行くのは危険な気がした。
 いざという時、守りきれるだろうか?
 迷い始めたクレバスの手を取ったのは、サラだった。
「行きましょう。私なら、平気です」
 しっかりとクレバスの目を見て告げる。その瞳には決意が込められていた。
「サラ……」
「私の、ことですから」
 かたかたと小さく震える手を、クレバスが握り返す。二人は黙って、螺旋続きの階段を降り始めた。


第25話・END
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