苔だ。
クレバスは目を瞬かせた。
闇に慣れ始めた視界に、おぼろげな輪郭が浮かび上がる。うっすらと洞窟内を照らす光は、確かに苔の発するものだった。
クレバスとサラは、洞窟内に入ってすぐにその暗さに愕然とした。入り口からの陽光が届く範囲はほんのわずか。数歩も進めばあたり一面の闇で、視界がきかないどころの話ではない。なにかランプの代わりになるもの、とクレバスがポケットを探り、携帯電話を取り出したところでサラが袖を引いたのだ。
「クレバスさん、これ……」
促されて顔を上げる。
いつの間にか、周囲が淡い緑色の光に囲まれていた。
ランプや電灯といった人工的な光ではない。暗闇の中で放たれる自然光。洞窟の壁面や床がかろうじて見て取れる。クレバスは幻想的な光景にしばし呆然とした。
それから、すぐ横の壁面に指先を走らせ、その正体を知る。
「……苔だ」
「すごい……綺麗……」
サラが目を細めて微笑む。ほのかに照らされた髪がやわらかな光を放つ。ここまでリラックスしたサラの表情を、クレバスは初めて見た。
(なんだ。そういう顔、できるんじゃん)
サラの顔を眺めていたクレバスの首筋に水滴が落ちる。
突如として訪れた感触に肩をすくめ、クレバスは首筋を掻きながら慌てて視線をそらした。見惚れていたのだと、後から気付く。
気付いてしまうとバツが悪いのはなんでだ。
別にやましい意味があったわけではないと抗弁する。それから、クレバスはサラの手を握りなおした。
「さ、行こう」
自分に言い聞かせるようにして足を踏み出す。直後、床に広がった水溜りに足を取られバランスを崩した彼は、持ち前の運動能力で転倒だけは免れた。
「クレバスさん!」
「だ、大丈夫」
まだ落ち着かない心臓を宥めるように胸に手を当てながら、クレバスが息を吐く。転ぶのは厭わないが、サラを巻き込むのは御免だった。
「やっぱり、手、離したほうがいいかも。危ないし」
「あ、はい」
言われたサラが手を引っ込める。
クレバスの手に残されたあたたかな感触は、寂しさも伴っていた。
祖父のことは嫌いではなかったかもしれない。
いいや、嫌いだったかもしれない。
今は間違いなく嫌いだ。
「なんなのよ、これは!」
「叫ばない」
ダイアナの絶叫が通路に木霊する。英雄が顔色ひとつ変えずにたしなめるのも、また不快だった。
あの扉の向こう、それが金庫だと思っていた。ところが、開けて出てきたのは、細く長い通路だったのだ。場違いにどこかのオフィスに通じたのかと思うほど、壁も床も完全に舗装されていた。おまけに電灯までついている。これが洞窟の底にあるとは信じがたいほどの近代的な作りだった。
「大層な念の入用だ」
通路に入り、内側から扉を閉めた英雄が感心したように肩をすくめた。
怒りが収まらないのはダイアナだ。このあたりが終着地点だと勝手に決め付けていた。
「なんなのよ、これは!」
「道だな、どう見ても」
行くしかなさそうだが、と英雄が呟く。彼は天井を見上げて、憂鬱そうな顔をした。
「この辺りはそろそろ海底にあたると思うんだが。通路半ばでハプニング、なんてことないよう祈るよ」
「あら、誰に?」
神様は不在なんでしょ、とダイアナが悪戯っぽく微笑んだ。
「さしあたっての女神様に」
言った英雄がダイアナから借りていた金貨を指で弾く。片手で受け取ったダイアナは、小鼻を鳴らしながら、金貨を胸元の谷間に納めた。
「その収納場所はどうかと思うんだが」
金貨を借り受けた時の事を思い出した英雄は苦い顔をした。
扉の脇にあったコインサイズの穴。少し苔を削ると、電子機器らしい基盤が覗いた。もしやと思い、ダイアナに金貨を貸すよう要請した。彼女は恥らう様子も見せずに胸の谷間から金貨を取り出したのだ。洞窟内が冷えているせいで、金貨のぬくもりがいやでも感じられたこと、早く記憶から消したいものだと英雄は思った。
「忘れなくっていいでしょ?」
これなら何があっても落とさないものね、とダイアナが胸を張る。豊満な乳房の輪郭をさして興味なさそうに眺めながら、英雄は静かに目を閉じた。
「まあ……はあ。賢明と言えば賢明かもな」
フォローを入れる前にため息が漏れる。ダイアナが怪訝な顔をした。
「なによ、そのため息は」
「ちょっとした本音」
気にしないでくれ、と英雄が手を振る。肩を怒らせたダイアナが、ヒールの音を辺りに響かせながら先に進んだ。
のろのろとその後に続いた英雄が、ちらりと後ろを振り返る。
頑丈そうな扉が見えた。
あの扉の鍵は、金貨だった。もしかしたら、サラの持つ銀貨でも開くのかもしれない。逆説的に言えば、鍵となるコインを持たない者には扉は開けられないということだ。
「……後ろを気にする必要はないかもしれないな」
来るとすれば、それはサラと共にいるアレクかセレンか。
「ああ」
それはそれで警戒の必要がありそうだと、英雄は認識を改めた。
螺旋階段を降りきったサラとクレバスは、朽ちた扉の前に立っていた。
五メートル四方にも満たない、わずかなスペース。その中央に扉がある。あたりを見回したクレバスは、わずかに眉を顰めた。
誰かいる気がしたのは、気のせいだったろうか。
洞窟に入った時に感じた違和感。あれだけはっきりと感じたのに、行き止まりのこの場所には人が身を隠せるスペースなどどこにもなかった。
「……クレバスさん?」
「あ、うん」
サラの声でクレバスは我に返った。
「この扉、鍵がかかってるみたいです。開かなくて……」
取っ手に巻いたハンカチを掴んだサラが、思い切り押したり引いたりする。扉はびくともしなかった。
「そう?」
サラの力では足りないのかと、クレバスが扉に手を伸ばす。その瞬間、銃声が木霊した。
「その手を離してもらいましょうか」
響く声。即座にクレバスがサラを背後にかばう。
クレバスの肩越しにその姿を見たサラは小さく悲鳴をあげた。
「楊……!」
「お探ししました。サラ様」
暗闇の中に、白衣が浮いて見える。螺旋階段の上、数人の信徒を引き連れた楊の手には、銃が握られていた。
第26話・END