お前達に、全てを託そう――
今際のダイアンの言葉が脳裏をよぎる。
あの瞬間、なにもかもを許しそうになった。信徒に囲まれ始祖と崇め奉られても、結局のところ、祖父には自分達しかいないのだと。
それが今、目の前にある現実はなんだ。
ダイアナが楊の手にある銅貨を凝視する。
「……よ」
「え?」
わななくダイアナが何を言ったのか、英雄は捉え損ねた。
「馬鹿にしないでよ!」
ダイアナが叫ぶ。
叫びに呼応するように、木立が揺れた。幹の中ほどで折れた木々が、楊達に覆いかぶさってくる。その切り口を、英雄は知っていた。
踵を返し、その姿を認める間もなく、ダイアナの手を引いて走り出す。
「ダイアナ様!」
追いすがろうとする楊達の前に、光の線が走る。
周囲の木々がまるで意思を持ったかのように楊達に降り注いだ。
落ちてくる枝葉が視界を奪う。
「く……!」
楊が銃を手にする頃には、二人は完全にその視界から姿を消していた。
ひとしきり走った後に、追っ手がないことを確認して、英雄はようやく走るのを止めた。振り返れば木立、目の前には海。無意識に島の端まで来ていたようだ。陸から姿が見えない場所にゆっくりと移動して、そこが終点だとばかりに立ち止まる。
手を引かれ通しだったダイアナが崩れ落ちるように膝をつく。
「まったく、どこまで走るのよ。ヒール脱げちゃったわ」
「今まで履いていたことに驚きだね」
「なんなの、さっきの」
木が勝手に折れたわ、とダイアナが呟く。そんなことあるわけないだろう、と英雄が否定した。
「ナイスタイミングだ、クレバス」
どこを見るでもなく英雄が告げる。
「そりゃどうも」
木々の合間から、クレバスが姿を現した。その背に隠れるように、サラもいる。
肩で息をしていたダイアナが、急に立ち上がった。
「サラ!」
「おねえちゃん!」
「感動の再会というヤツかな」
しっかりと抱き合う姉妹を見て、英雄は皮肉っぽく微笑んだ。
「僕らも含めて?」
「感動っていうガラじゃないだろ」
「まあね」
英雄が息を吐き、姉妹から視線をそらさぬまま口を開く。
「……で、なんでここにいるんだ?」
「それはオレも聞きたいんだけど」
息抜きに来たなどとはとても言えない。クレバスは横目で英雄を見た。
疲労困憊の果てにいるような顔をしているのかと思えば、そうでもない。シャツもズボンも多少汚れてはいるが、大きな怪我もなさそうだ。そのことに密かに安堵する。
「なあ」
クレバスの思惑をよそに、英雄が苦々しく口を開いた。
「まさかとは思うけど、他に」
「いないよ」
全てを聞かれる前に、クレバスは否定した。英雄の問いが何を示しているのかはわかっている。セレン達だ。本来ならば、サラに同行しているはずの彼ら。
「へえ」
クレバスの返事を吟味するように英雄の眉が寄る。どうにも、クレバスがサラと行動しているのが理解しがたいようだった。
一体、こんな少女を放ってセレンとアレクは何をしているのか。
「……君の周りにはロクな大人がいないな」
とりあえずの感想を英雄が漏らした。
「英雄も含めてね」
クレバスが補足する。
嘆息する英雄をなだめることもなく、クレバスはあたりを見回した。木々の合間、葉の隙間から自分達が渡ってきた海が見える。
そこにちらほらと、白い影がよぎった。
「英雄」
「なんだい?」
「どっから来た?」
あの通路、と言いかけて英雄はクレバスを見上げた。
「……君とは別ルートらしいな。追っ手さんが来てたから、もう使えないと思うが」
「オレ達が来た道も塞がれてる」
「その心は?」
「戻れない」
「素敵だ」
英雄は頭を掻いた。クレバスの視線にならい岸を見、その影を認めて、うっすらと笑みを浮かべる。
海の向こう、白くさざめく波の合間に、ありがたくない白装束達がひしめいている姿が見えた。
「これはまた大勢で。僕らを探して島狩りのひとつもやってくれそうな気配だな」
「どうして?」
ダイアナが口を挟む。
「あいつはもうコインを持っていたじゃない。あたしたちを構う意味なんてないわ」
目的は達したはずだ。英雄は頷いた。
「そう、コイン。お陰さまでここに辿り着いた。が、遺産の在り処がわからない。君達なら」
「知らないわ!」
言い切る前にダイアナが叫んだ。英雄がひるむことなく告げる。
「真実の有無はさておき、あちらは知っていると“思っている”。それが大事だ。こっちの言い分を聞いてくれるとも思えないが」
「そんな……」
ダイアナが絶句した。その手を、サラが掴む。
「大丈夫よ、お姉ちゃん」
そしてクレバスを真っ直ぐに見上げた。
「でしょう?」
「そう、コイツ、依頼の達成率だけはいいから」
にこやかにクレバスが英雄を指差した。この世の終わりのような顔をしたのは、まぎれもない英雄自身だ。
「ク、クレバス」
「なに?」
「なまなかな希望はどうかと思うよ」
「絶望よりはマシさ」
「安請け合いは」
「してない」
クレバスは言い切った。ため息こそつかないものの、憂鬱さを隠そうとしない英雄に向き直る。
「仕事だろ?」
「ごもっともです」
英雄は片手をあげた。それ以上言わなくていいとばかりにクレバスに向けてみせる。
「……相変わらずだね」
英雄は微笑んだ。
「馬鹿にしてんのか」
クレバスがむっとする。「いいや」 英雄は即座に否定した。眩しげに目を細める。
「羨ましいさ」
君のその、変わらぬ希望が。
静かだった。
夕陽を受けた礼拝堂のステンドグラスが、その影を床に落とす。
本来ならば礼拝の信徒で埋め尽くされるこの時間。自分が皆の前に姿を現すまで、空間には雑音が満ちている。他愛ない世間話、神様のこととか。
くだらない。
そう思ってきた。五月蝿いとさえ。だから自分が姿を現したことで口を閉じる信徒達が滑稽で、この高台から説教をすることに優越感さえ抱いていた。
ラスティンは礼拝堂の説教台に両手をついた。目を閉じる。
この場所は、こんなにも静かだったのか。
染み入るような静寂に身をひたす。そこに踏み入る革靴の音に、ゆっくりと瞼を開いた。
「……お待ちしていました」
穏やかな微笑で迎える。
闇に乗じるでも影に潜むでもなく、そこにあるのが当然の如く彼は現れた。
銀髪が夕陽を照り返す。白い肌と対照的な黒い影が長く伸びる。整った顔立ちに浮かぶかすかな微笑は、妖艶ですらあった。
その名を知っている。
サラを匿われて後、信徒にあの店を調べさせた。名前以上のことは手に入らなかった。なにかあると訝しんだ矢先に、返り討ちにあった。
ラスティンは笑みを顔から消した。目が冷徹に光る。
「確か――セレンさん?」
男が悠然と微笑む。それはまぎれもない肯定の証だった。
第29話・END