手順はいたってシンプル。一方が相手を引きつける、その隙にもう一方が逃げる。ただそれだけだと英雄はサラに説明した。
「そして僕らが引きつける側。あの女王様には早めに退出願おう」
「クレバスさん達は地下通路で?」
「いや」
英雄は頭を振った。
「あそこは逃げ道がなさすぎる。もうじきまた潮が引く。ぜひとも渡ってもらおうじゃないか、海を」
あそこはあそこで格好の的になるんだが、と英雄は対岸を見て渋い顔をした。視線の先に白い服を着た信徒の姿が確認できる。手にした銃が白衣にひどく不釣合いだった。
「神様が銃好きとは知らなかった」
英雄が嘆息する。クレバスに銃は持たせていない。鋼糸は遠距離には不向きだから、こちらからのサポートが必要だろう。そうでなければ蜂の巣になるのは目に見えている。
サラもつられるように対岸を見た。それから、ゆっくりと英雄に向き直る。
「あの、もしかして」
おずおずとサラは告げた。
「具合が……悪いんですか」
サラの言葉に英雄は耳を疑った。その顔に信じられないと書いてある。疑問を全面に押し出した表情の英雄を見つめながら、サラは頷いた。
「クレバスさんに聞いたんです。あの……」
行こう、と言ってから英雄が動き出さない。そのことがサラに確信させていた。「あいつ具合が悪いなんて自分からじゃ言わないから」とクレバスが釘を刺していたせいもあるかもしれない。
「大丈夫」
サラの言葉を遮って、英雄は断言した。厳しいとも優しいともつかない口調だった。
「クレバスから何を聞いたかは知らないが、仕事に影響はないよ。心配しないで」
そう言って微笑む。その額にわずかに汗を滲ませながら、英雄は左右を見回した。
「え、あの……」
「そこで待っててくれ」
言うが早いが駆け出す。遅れた行動を取り戻すためとはいえ、その場から逃げたようにも見えた。英雄の肩に触れた木の葉が音もなく散った。
「……違います」
茂みに呑まれていく英雄の後姿を見ながら、サラは一人呟いた。クレバスは確かに英雄の病に触れた。けれど、サラに伝えたかったのは別のことだ。
それはよくわかっている。
クレバスが告げた言葉を思い出すたびに、胸に沈むなにか。
それを押し留めようとするかのように、サラは胸の前で手を組んだ。その姿勢は祈りにも似ている。
サラが英雄のことを聞いたのは、地図を求めに海岸を離れ、ついでに朝食にありついている時だった。買ってきたサンドイッチとジュースを手に、階段に無造作に腰を下ろした。クレバスが買ってきた地図を広げる。邪魔をすまいと、サラはそれを横目で見ながら静かにサンドイッチに手を伸ばした。
「……大丈夫でしょうか」
黙っていようと思っても、不安が零れる。これからのことを思うと、とてもじゃないが食事をする気分にはなれなかった。
「食べといたほうがいいよ。いざって時に動けないと困るし」
まるで学食のランチでも食べるかのようにクレバスがサンドイッチを貪る。瞬く間に三個ほど平らげると、彼はジュースを喉に流し込んだ。
「信じてるんですね」
「誰を?」
「英雄さん、でしたっけ。クレバスさんのパートナー」
サラの言葉にクレバスは口に含んでいたジュースを盛大に吹き出した。気管に入ったジュースで休むことなくむせ続ける。その有様に、サラは驚いた。
「だ、大丈夫ですか」
心配ないという意思表示に右手を掲げてみせる。が、クレバスはむせ続けた。
パートナー。
傍から見ればそう見えるのか。そうかもしれない。実感がまるでないのは、英雄が相変わらずクレバスを子ども扱いするからだろう。
それは自分が一人前とは思われていない証でもある。
クレバスの咳が止まった。わずかに唇を噛む。
「ああ、大丈夫」
目尻にたまった涙を拭い、クレバスはサラに向き直った。
「優しそうな人ですよね」
「英雄が? そう見える?」
クレバスが微笑んだ。どこか嬉しそうだ。
「ええ、私には。穏やかそうな人だと」
サラは数回姿を見かけただけの英雄の姿を思い出しながら答えた。黒髪に、黒い瞳。ダイアナより年下に見えるが、東洋人は若く見えると言うから、実際はサラが想像するよりはるかに年上なのだろう。微笑むことは少なかったが、棘のない柔らかな印象だったと回想する。
「ひどい嘘吐きだけどね」
クレバスが肩をすくめた。
「どこで知り合ったんですか?」
まるで接点のなさそうな二人だとサラは思っていた。つい、疑問を口にする。サラの質問に一瞬目を丸くしたクレバスは、あっさりと答えた。
「あ、親子だから」
「え?」
驚くのはサラの番だった。
「お、親子なんですか。だって」
英雄は確かに若く見えた。けれどクレバスが子供だと言うことは、実際いくつなのかと逆算しそうになる。
「うん、義理のだけど」
ちょっといろいろあって、とクレバスは頭を掻いた。
「そ、そうなんですか……」
サラは心底驚いたようだった。クレバスの顔をまじまじと見ながら、ジュースに口をつける。
「でも、ちょっと羨ましいです」
「なにが?」
「英雄さんとクレバスさん。仲が良さそうで」
「どこが」
「そうやって言えるところが」
私と姉もそうだったらいいんですけど、とサラが少し俯いた。
「オレから見ればサラ達も仲いいよ。手を繋いで傍にいるだけが能じゃないだろ?」
「そう、でしょうか」
サラがちょっと困ったような顔をした。彼女の中では、仲良しの定義が決まっているらしい。
「私も、クレバスさんみたいに、ちゃんと動けたらいいのに」
サラがぽつりと呟いた。
何度決意してくじければ気が済むのだろう。サラは自分にうんざりしそうだった。
「オレは決めてるから」
クレバスはサンドイッチの最後のかけらを口に放り込んだ。
「英雄はオレが看取るって」
「看取るって」
そんな物騒なと言いかけたサラは、クレバスを見て息を呑んだ。金色の前髪の合間から覗く瞳には、冗談のかけらも見当たらない。
「あいつは昔、病気で一度死んでるんだ」
「英雄さんが? まさか」
サラは冗談だと思った。けれどクレバスの表情は真剣そのもので、それを問うことすら許さなかった。
「臓器移植でなんとか助かったって。けど、残された時間は少ないと思う」
ハンズスから英雄の状態を聞いた時、あわせて数年後の生存率の低さも聞いた。絶望と希望が手に手をとってやってきた。あの瞬間の気持ちをなんと表現すればいいのだろう。鉛の沈むような感覚を思い出し、クレバスは胸に手を当てた。
この胸の淵に、沈んでいるものがある。
「オレはもう一度英雄を看取る」
クレバスは決意を表すように口にした。
「一度目は間に合わなかった。だから、今度は――今度こそは、きっと傍に」
確実に来る終わりの日を待つ。それはどんな気持ちだろう。サラには到底理解しえなかった。
自分ならきっと喚いてしまうとサラは思った。「死なないで」「そんなの嫌だ」と声の限りに叫んで、きっとずっと泣いているだろう。
クレバスがそうしないのは、一度英雄の死に触れているせいかもしれない。あるいは残された時間の少なさが、泣く時間すら惜しませるのかもしれない。
それでも、サラにはその強さが羨ましかった。
あなたが死ぬ時には、同じ景色を見ていたい。
クレバスさんはそう言っていました。
それが戦場でもどこでも構わない。今度こそ看取るのだと。
――それがオレの義務だ
クレバスの言葉を思い出しながら、サラは英雄の背中に語りかけた。英雄の姿はすでに広がり始めた闇に飲まれ、その先は見えなかった。それでもクレバスの代わりを果たすかのように、サラはそこから視線をそらそうとはしなかった。
【第33話・END】