DTH3 DEADorALIVE

 血流が巡るのを感じながら、英雄は静かに駆けた。露を含んだ葉が、踏まれるたびに泥水を跳ね上げる。英雄の頬に、服に、泥がこびりつく。それらを省みることなく、英雄の視線は一点に注がれていた。
 信徒達に指示を出す黒髪の男――楊に。
 息を潜めた英雄が、獲物の背後に忍び寄る。鬱蒼と茂った木々が、その身を隠してくれる。ワイシャツにズボン、革靴といった都会的な格好であるにも関わらず、英雄は完全に島の空気に溶け込んでいた。己を殺し、ひたすらに周囲と同化する。彼にとってはごく当然の、慣れきった作業だった。
 英雄からすれば、たやすくその喉を掻き切れるほどに、楊は無防備だった。手にした銃がなんの意味も持たない。安全装置を解除されてはいるが、銃を持ち上げ、狙いを定め、撃つまでの時間があれば十分に行動できる。
 厄介なのは、その息の根を止めないこと、そして。
 英雄が静かに長く息を吐いた。同時に動悸が鎮まっていく。
 ダルジュと廃屋で鉢合わせたことを思い出す。あの時、不用意に咽元にボールペンを突き立てた自分への、信徒の反撃。
 死を厭わない人間はやっかいなものだと骨身に染みた。
 胸の奥が熱い。英雄はじりじりとリミットが迫っているのを感じた。動ける時間も限られてくるだろう。
 手にした銃を握り締める。
 それはひどく馴染んだ感触だった。


第34話「闇に光る。それは君の心にも似て」


 信仰は、楊にとって絶対のものだった。
 命を捧げるにも値する、不可侵の聖域。
 この身を投げ出すことなど容易いことと公言して憚らないものそのためで、事実、楊は献身的に教団に尽くしてきた。
 今さら命を惜しむことなどあるわけがない。
 そう信じてきた楊を驚愕させているのは、凍りついたように動かない己の体だった。

 それはほんの数秒前の出来事だった。
 後方の茂みが動いた。
 気配を感じ、振り向こうとした瞬間、楊は自分の前に立つ英雄の姿を認めた。楊の体に向けられた銃口が暗い淵を覗かせる。それよりも楊の動きを封じたのは、冷え冷えとした英雄の眼差し、そして声だった。
「動くな」
 たった一言。怒鳴るでも威圧するでもなく、淡々と告げられた。
 それだけだ。
 声をかけられた、ただそれだけで、楊の体は動かなかった。
 楊の目が驚愕に見開かれる。
 今しがた耳にしたのは、確かに人の声だと言うのに、驚くほどに無機質だった。感情のかけらも感じられない。それを肯定するかのように、英雄の目からはなんの思考も読み取れなかった。
 この男とは何度も会っている。
 楊の麻痺した脳が必死に情報を掻き集めた。英雄を凝視したまま、言葉もなく立ちすくむ。
 そうだ、何度も会っている。
 事務所で、船上で、ダイアナと共にいた探偵だ。
 今まで消し去ってきた探偵となんら変わらない、それどころか往来のどこにでもいる東洋人だと思っていた。

 だが、目の前にいるこの男は、誰だ?

 死神の衣で優しく頬を撫でられるような恐怖が、楊を襲っていた。
 対峙する人間からはなんの情動も察せられなかった。黒い瞳は深い闇を孕んで、まるで底が見えない。
 危険を察知した本能が体を支配する。楊の体は、彼の信仰に反して、微動だにしなかった。
 それを見越していたかのように、英雄が歩を詰める。至極当然のように楊の傍に歩み寄り、楊の手にしていた銃をなんなく取り上げた。
「ご協力感謝する」
 慇懃無礼な物言いに、楊の頬が紅潮する。
 彼の口を開かせたのは、信仰ともプライドともつかない心情だった。
「わ、たし、は……!」
 拳を固く握り締める。喉が渇いて口の中がねとつく。たった一人の、しかもこんな優男にプレッシャーを感じるなど、楊にとって初めてのことだった。口を開くだけで、額に脂汗が滲む。
「私の信仰は、お前などに屈しない……!」
「それはそれは」
 英雄の唇が薄く笑みを描いた。右手が鮮やかに翻り、楊の首に手刀を叩き込む。気を失い、崩れ落ちる楊を見下げて、英雄は困ったように呟いた。
「屈して僕を拝まれても困るわけだが」
 そのまま周囲に視線を走らせる。方々に散った信徒達の背中が垣間見えた。誰一人振り返ろうともしない。それほど無音のうちに、英雄は一連の行動を終えていた。
 英雄が静かに嘆息する。
 このまま一人一人行動不能にするしかなさそうだ。
 それはひどく不毛なことに思われた。
「……仕方ないか」
 無意識に胸元を握り締めていた手をほどいて、英雄は歩き始めた。その足元で、楊が目を覚ましていたことになど気づきもせずに。
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