DTH3 DEADorALIVE
第35話 「拠るべき場」
崩れ落ちる英雄の横を、クレバスが駆け抜ける。引き絞った腕に集められた鋼糸が、二度目の軌跡を描いた。切り倒された樹木が、信徒達の上へと覆いかぶさる。舞う砂塵に目を細めながらも、クレバスは警戒を解かなかった。めぼしい信徒は片付けたはずだ。
だが、場から殺気が消えない。まだ潜んでいる信徒がいるのだ。
クレバスが周囲に視線を走らせる。
「クレバスさん!」
サラの悲鳴と、銃声が聞こえたのは同時だった。
咄嗟に引き戻した鋼糸が、銃弾を切り落とす。二つに裂かれた銃弾の破片が、クレバスの頬をわずかに削った。熱い感触と共に、血が滴る。
「来るな、サラ!」
どこからか駆け寄ろうとするサラを止める。間髪入れずに二度目の銃声が響いた。
「く……っ」
右肩を被弾し、バランスを崩したクレバスが、傍の茂みに倒れこむ。か細い枝で構成された茂みの先は、切立った崖、そして海だった。
海水をたっぷりと含んだ砂地は、落下してくるクレバスを歓迎した。岩場でなかったのは僥倖だろう。ここは干潟なのだ。数十センチの海水が、陸の表皮を覆っているにすぎない。
着地までのわずかな間に、クレバスは落下態勢を整えていた。海面に足先が触れ、柔らかな膝のバネが衝撃を吸収する。砂に足をとられ手をつくと、クレバスはすぐに身を起こした。
「くそ!」
鮮やかな金髪についた海水が粒となって滴り落ちた。それが海に還らぬうちに、クレバスの顔が険しくなった。苦みばしるような表情で、陸地を睨む。
街灯の明かりで、対岸にいる人間のシルエットがおぼろげに浮かぶ。その手には間違いなく銃が携えられており、銃口は確認するまでもなくクレバスの体に狙いを定めているはずだった。
――遠い
クレバスは掌の中で鋼糸を躍らせた。放つことはできない。距離がありすぎる。
かといって銃弾を避けられるような算段もない。セレンならばこの窮地を脱するのは容易いだろうが、実戦経験の少ないクレバスには無理な話だった。
降参という選択肢は、彼の中にない。
クレバスの額を冷たい汗が流れた。
わずか数秒のことが、ひたすら長く思える。
新たな波が岩にぶつかり、弾ける。それが契機になった。信徒達が銃を持つ腕に力を込める。引き金に指を当てる気配を察し、クレバスが敵わぬまでも鋼糸を放つべきだと決断した瞬間に、それは起きた。
光が、走った。
見慣れぬ者にはその軌道を追うことすらできなかっただろう。
クレバスにとっては馴染み深いものだった。
その軌道も、光も。
月明かりの中でさえ、はっきりと見て取ることが出来た。
星の瞬きにも似た光を放ちながら、なめらかな曲線を描く――鋼糸。
信徒達の手を裂き、血を纏いながら戻り行く先の指にも、クレバスは見覚えがあった。
長くしなやかな指先には、独特の色気がある。掌ひとつで魅せる男など、そうはいない。
「セレン……!」
掌に鋼糸を収め、セレンは微笑した。月光を背に、岸壁の上に立つその姿。夜との境目になびく銀髪は、闇に溶けることなく輝いている。
「出来の悪い弟子を持ったものだ」
微笑を絶やさぬまま、セレンが目を細めた。傍らに銃を携えたダルジュの姿も見える。星空のデートに誘われてやってきたのがこの無粋な場所だったと、その顔にありありと書いてあった。
「誰が弟子だって?」
むっとしたクレバスがセレンを睨む。
「こちらは引き受けてやってもいい」
セレンが言い終わらぬうちに、信徒の一人がナイフで挑みかかった。月光に鋼糸が煌く。赤い飛沫と共に、信徒の手が飛んだ。信徒の絶叫が響き渡る。
「セレン!」
「抗議している場合か」
セレンがクレバスを指差した。否、正確には、クレバスを通り抜けて島のほうを指差している。
「そっちは自力でなんとかするんだな」
言われたクレバスが振り向いた。月明かりで島は巨大なシルエットになっていた。その暗闇から、自分に向けて構えられたいくつもの銃口と、殺意を感じる。
どうしようもない。
身動きすれば、即、撃たれそうだった。
クレバスの表情が強張った瞬間だった。
波の音に混じって、水音がした。
暗闇の中、淡い緑の光がいくつも輪を描く。瞬間的に現れては消える光が、軽やかに跳ねるようなリズムでクレバスに近付く。
怪訝な顔をしたクレバスが目を凝らす。
輪の上に誰かがいる。
小柄な――少女だ。
海に少女の足が入る度に、弾けるように光が湧いては消えた。暗闇に映える蛍光色の緑。その光が、夜光虫によるものであることを、クレバスは知らない。だが、駆け寄ってくるその姿には見覚えがあった。
「サラ!」
駆け寄った勢いでクレバスに飛び込むと、刹那、サラは確かにクレバスを抱きしめた。
クレバスが何か言う前に身を翻し両手を広げると、島に向けて叫ぶ。
「おやめなさい!」
サラの声に、島の木々が震えた。
「これ以上、無関係な人を傷つけることは許しません!」
毅然と言い放つ、その先は闇だ。中に身を潜めているはずの信徒達の姿は見えない。闇は、ただ沈黙した。
「サラ……」
クレバスを背にかばったまま手を下げようとしない。クレバスの呟きを聞いたサラは、一瞬唇を噛み締めた。
「ごめんなさい」
と小さく詫びる。その手には、クレバスの血がついていた。
「私は、ダイアンの孫ですから」
言う端から目に涙が溜まっている。指先の震えはどうしようもなく止まらなかった。
サラは無言で島を睨み続けた。
どのぐらい時間が経ったろう。
月明かりの中に、信徒が着る白衣が浮かび上がった。サラがびくりと身を震わせる。
一人、二人と茂みから出てくる。
浜辺へと姿を現した彼らは、黙ってサラに跪いた。
深く頭を垂れる信徒達の後ろから、楊が姿を現した。
「楊……」
サラが表情を強張らせると、楊は手にしていた銃を砂浜に置いた。他の信徒同様、膝をつき、頭を垂れる。
「長らくの不在、帰還をお待ちしておりました。我が主」
「主……?」
クレバスの怪訝な声に、楊は頭を上げずに答えた。
「我らが聖者は海を渡ります。先ほどの、サラ様のように」
サラは世界が揺れるような錯覚に見舞われた。
何を言っているのだろう、この人達は。
ここは干潟だ。誰だって渡ることが出来る。私のような子供に、何を求めて――
許しておやり――
サラの脳裏にダイアンの声が蘇った。あれは、そう、両親が交通事故で死んだ夜だ。ダイアナが祖父に猛抗議していたのを覚えている。
でも、おじいちゃん。
許しておやり、彼らは、彼らの拠るべきところを守っただけなのだよ――
祖父の声は穏やかで、だからこそダイアナは怒った。あの男は悲しくはないのだと吐き捨てて、サラの手を掴んでバスに飛び乗った。
拠るべきところ。
あの日のダイアナの手がサラの拠るべき場所だったとするならば、彼らにとって祖父がそうだったのだろう。
そして今も代わりを求めてる。消えた祖父の代わりに、残した遺産を求めて。
サラがダイアナに安らぎを覚えたように、ダイアナがサラを支えとしたように。
こんな少女にさえ奇跡を夢見て。
サラは叫びたくなった。そんな馬鹿なことと泣いて喚いてしまいたい。サラの葛藤などおかまいなしに、頭を下げた信徒達は依然として顔を上げようとはしない。それを見つめていたサラの目に、涙が溢れた。
この人達は、私と同じだ。
支えがなければ、立っていられない。立っていられないんだ。
サラのきつく結んだ唇が震える。
許しておやり――
おじいちゃん、私は、あなたの孫だわ。
サラの顔が笑みとも泣き顔ともつかない表情に歪む。
噛み締めた唇が開かれ、紡ぎだされた言葉は、静かな優しさに満ちていた。
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