A Special Day2

 メールの差出人はできれば見なかったことにしたい相手で、事実英雄はその通りにするつもりだった。
「英雄、電話」
「出ない」
 クレバスにも即答する。受話器を持ったクレバスが、怪訝な顔をした。
「まだ、誰からかも言ってないけど」
「わかるさ」
 電源を切った携帯を、英雄が忌々しげに見つめる。
 ソファに座り込んだ英雄に、本当に出る気がないのだと見て、クレバスは受話器に話しかけた。
「わかってるけど出たくないって」
「あらあら」
 受話器の向こうから、自分の指先に塗ったマニュキュアでも眺めながら話しているだろうダイアナの気だるげな声がする。
「訂正だ、クレバス。わかってるから出たくない、だ」
「だってさ」
 まるで子供のような対応だと、クレバスが肩をすくめる。伝言ゲームをするぐらいなら、自分で話せばいいのに。
「子供ね」
 ダイアナがばっさりと切り捨てた。
「いいわ、連絡方法はいくらでもあるし、また会いましょって伝えといて」
「オーケー、わかった」
 クレバスが電話を切る。それを見た英雄が眉を潜めた。
「君は彼女の味方なのか?」
「なんで?」
「対応が」
「バカ?」
 ごく一般の対応をしただけだとクレバスが告げる。英雄が憮然とした表情で黙り込んだ。
「なあ、こないだのデート、なんかあったんだろ?」
 それまでもダイアナを避けていた英雄だが、先日呼び出されてから輪をかけて避けるようになった。
 クレバスにはまるで理由がわからない。ただ、帰宅した時の英雄がキツネにつままれたような表情で、「理解できない」と繰り返し呟いていたのが印象的だった。
「デートじゃない」
 英雄が苦々しい表情で否定した。
「じゃ、なに」
「呼び出されたから行った、それだけだ」
 それを何度も繰り返せばデートだというのに。
 英雄は絶対に認めようとはしなかった。
「別に、なにもなかった」
 英雄の眉間に皺が寄る。
 あれは、そう――なにもないと言えば、なにもない。あったと言えばあった、そういうことになるんだろう。
 呼び出しも嫌がらせも止めてくれと何度目かの申し入れをしにいった時のことだった。
「じゃ、来なきゃいいじゃない」
 ダイアナ指定のオープンカフェは、白を基調としたタイルにテーブル、青をモチーフにしたイスと所々に植えられたグリーンがアクセントを添える洒落た雰囲気の店だった。
「来なきゃ、なにかするだろう」
 不快さを隠そうともしない英雄がパスタをつつく。こうして不毛な食事に付き合うのは、もう何度目だろう。指を折るのも馬鹿らしかった。
「されたっていいじゃない。いつか諦めるかもしれないわ」
 ダイアナが優雅に微笑む。艶やかな唇は、それだけで色気を持っていた。
「良くはない」
「まあ」
 わざとらしく驚くダイアナに、業を煮やした英雄がフォークを置いた。
 ここらが潮時だ。きちんと言っておかなくてはならない。
 また――誰かを泣かせるのは、もう御免だった。
 英雄の脳裏にマージの姿がよぎる。
 何度泣かせたことだろう。思い出すだけでも胸が痛む。その痛みが、英雄の背を押した。
「この際だ、はっきり言っておく」
 英雄の声音に遊びの余韻がないことを感じ取って、ダイアナの顔から笑みが消えた。挑むような瞳を見ながら、英雄が告げる。
「僕は君のどんな要求にも答えることはできない」
「要求?」
 ダイアナが首を傾げた。
 英雄はマージのことを思い返していた。彼女が望んだであろうこと、そして、恐らくそれはダイアナも望むことだろうと。
 わずかに拳を握る。紡がれる言葉は、宣言のようだった。
「傍にはいられない、子も残せない、幸せにはできない」
 だから、と言いかけた次の瞬間、英雄は自分の眼前に迫ってくるパスタを見た。本日のシェフお勧めパスタは、魚介系のぺペロンチーノだった。エビとアサリがパスタに絡みながら仲良く飛んでくる。否、パスタだけではない。自分が使っていたフォークも、ダイアナが飲んでいたアップルティーも、テーブルにあったもの全てが、テーブルと共に自分に突っ込んでくるのだ。
 カフェの中に、テーブルと食器が奏でる不協和音が派手に響いた。
「馬鹿にしないでよ」
 自慢のピンヒールでテーブルを蹴り上げたダイアナは、見下ろすように告げた。事実、彼女は英雄を見下ろしていた。テーブルの直撃を受けた英雄は、受身を取ることも叶わず、呆然と床に座り込んでいた。額から垂れるパスタが憐れみを添える。
「幸せがなによ? あたしがいつそれを望んだの?」
 憤然と告げる、その言葉の意味が英雄にはわからない。
 女の子の夢はお嫁さん。幼い頃からマージを見てきた彼にとって、それはごく当然の思考回路だった。
「……え?」
「馬鹿にしてるわ」
 本当に、と怒ったダイアナが席を立つ。
 それはどういう意味だ、と英雄が問おうにも、彼女の姿はすでに雑踏の中に消えていた。
 あれから、英雄は輪をかけてダイアナを避けるようになった。
 元々理解しがたい女性だった。それが今では、何を考えているのかわからない難易度一級の生物にクラスチェンジしている。さらに、あれだけ激昂しておいてまだ連絡を寄越してくるという行動が、完全に英雄の理解の範疇を超えていた。
「なにもなかったよ」
 繰り返し呟いた英雄が、窓の外を見ては溜息をつく。
 まるで恋でもしているようだと、クレバスは肩をすくめた。
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