A Special Day2
セレンの視力の衰えは、確実に進んでいるようだった。
日常を共にするアレクは、嫌でもその過程を目の当たりにする。
物音に驚いて飛び起きると、セレンの足元にコーヒーが瓶ごと転がっている。それも珍しくはない光景だった。
「落した」
どうした、と問う前にセレンは言い、足元に擦り寄る子猫をなだめながらモップを手にした。
そんなことが何度もあった。ある時は注ぎ入れた紅茶ごとカップを、またある時は読んでいた本を不意に落した。皿を何枚も割ったこともある。
日常生活で目測が狂うほどに視力が落ちているのだ。
アレクは愕然とした。
いずれセレンから光がなくなるとしても、もっと先の話だと思っていた。それが、思いのほか早足でやってくる。
嬉しくない。と、思うと同時に、今なにかせねばと気が急いた。
セレンのことだ、口が裂けても弱音は吐くまい。それでも彼も人なのだ。眼前に迫る闇に、恐怖を抱かずにいられるのだろうか。
できるならば、闇に飲まれるその時にも、一人ではないと知っていて欲しい。そう思って、不自然極まりないサプライズパーティーを企画したのだが。
堂々巡りになる思考に、アレクが嘆息する。
わかっている。そう願うのは、自分のエゴだ。
誰の手も必要ない。セレンならばそう言うだろう。そして、その言葉通り、自分一人で対処するに違いない。
そんなこと、よくわかっている。
ただ――……
「ちょっとぉ、大丈夫?」
不意にガイナスが覗き込んできたお陰で、アレクの思考は中断された。
「エ?」
「すーごく難しいカオしてるんだけど?」
ガイナスが眉間に皺を寄せる真似をした。
「アア」
ダイジョブデス、とアレクが微笑む。
「あっちは大丈夫じゃないみたいだけど?」
ガイナスが強盗を指差す。
業を煮やした強盗は、店主の胸倉を掴み、その口に銃口を押し込んでいた。
22:13 PM―――
会いたくない相手に限って出会う羽目になる。それを運命と呼ぶかどうかは主観に委ねるが、事態は歓迎すべきものではない。
英雄は苦々しい顔で目の前のグラスを見つめていた。
深海を連想させるバー、G&G。青と黒に彩られた店内で、ピアノの音が流れている。照明を受けたグラスは光を反射し、早く飲み干せと急かす様に中の液体が揺れた。
そう、揺れた。
英雄がグラスに触れていないにも関わらず、中の液体はひとりでに揺れていた。
濁った濃いグリーンのマグマ。そう呼んでも差し支えなさそうな有様だ。
「ご注文の品です」
滑らかな動作でグラスをカウンターに置いたバーテンは涼しい顔をしている。英雄は出来るならすぐさま席を立ちたかった。否。
本当ならば、この店のドアを開けた瞬間、ダイアナの姿を認めたその時にこそ、そうすべきだったのだ。
「随分違うのね?」
己のグラスと英雄のグラスを見比べたダイアナが、半ば呆れたような感想を漏らす。セレンは優雅に微笑んだ。
「お客様に相応しいカクテルをお出ししています」
どういう意味だ。
煮立つような液体を見つめながら、英雄はうつろな笑みが浮かぶのを自覚した。
セレンお任せのカクテル、「DEADorALIVE」。洒落にならないメニューだと思っていたが、我が身に降りかかる日が来たのだ。
気だるさを全身に漂わせながら、英雄がグラスを指で弾く。
「君のお勧めだったな」
「え?」
ダイアナの瞳が瞬いた。
「責任は取ってくれよ」
観念したように呟いて、英雄はグラスを一気に呷った。
途端に、世界が回る。
セレンは気紛れデスカラ、きちんと足止めしておいてクダサイ。
にこやかに告げたアレクの顔が脳裏を過ぎる。
ああ、それは無理な相談だ。
「ちょっと!」
ダイアナの顔が、渦を巻く。
英雄は、その場に昏倒した。
23:36 PM―――
異変に一番初めに気づいたのは、クレバスだった。
「あれ?」
セレンのマンションを訪れる。先に戻っているはずのアレクがいない。何度インターフォンを押しても、応答がなかった。
「おかしいな」
サラが選んだプレゼントを困惑気味に見つめる。ピンク色の包装紙に、星をモチーフにしたリボンが飛び出さんばかりに巻きついていた。ラッピングまで可愛らしい。サラらしいと、クレバスの唇に笑みが浮かんだ。
自分は行けないから、とメッセージカードも預かってきたのだけれど。
足元を冷たい風が吹く。ジーンズのポケットに手をやったクレバスは、そこに鍵があることに気づいた。
「ナニカあった時の為デス」
アレクはクレバスに合鍵を渡していた。万一、セレンと自分が共倒れになれば、子猫が飢えてしまうと、そう言って。
この場合、使っていいのか。
クレバスは考えた。それはほんの一瞬のことで、子猫の鳴き声が室内から聞こえた瞬間、彼はためらいなく鍵を錠に差し込んでいた。
「アレク?」
呼びかけながら、ドアを開ける。
しんとした室内には、人の気配がなかった。
「いないのか?」
やはりおかしい。本来なら、アレクはとうに戻ってここで料理を用意しているはずなのだ。
足元に擦り寄る子猫の背を撫でて、クレバスは携帯を取り出していた。
アレクにも、ガイナスにも通じない。
かろうじてシンヤとだけ会話はできた。
「アレク達がまだ戻ってないんだけど、なんか聞いてない?」
水を交換し、キャットフードの袋を開け、子猫の皿に入れてやる。飢えていた子猫が勢いよく食べだした。
「いいや」
そういえば遅いな、とシンヤは淡々と告げた。ガイナスは気紛れだ。予告通りに現れないことなど、珍しくないのかもしれない。
「ほんとなら、とっくに戻ってるはずなんだ」
テーブルの上に、ラップされた料理が並べられてる。あとはほとんど温めるだけだ。ラップのひとつを指でつまんで、クレバスはそれを確認した。
「いないなんて、おかし……」
話しながら振り向いた瞬間、クレバスの体が硬直した。手から携帯が滑り落ちる。
確かに玄関のドアは閉めた。誰かが入れば、気づかないはずがない。例え通話中であってもだ。
それなのに、いないはずの人間が、そこにいた。
「クレバス?」
床に落ちた携帯から漏れるシンヤの怪訝そうな声にも、クレバスは答えなかった。
「珍しいな、こんな時間に」
艶のある声が、クレバスに問いかける。
子猫が誇らしげに足元に擦り寄る、その人物。
「セ、レン」
クレバスの喉が静かに上下する。
そのぎこちなさに満足するかのように、セレンは優雅に微笑んだ。
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