まぜまぜダーリン
召喚1:「イナクタプト」
その日その時、中川柊子(なかがわしゅうこ)は一日を終え、疲れを癒すために風呂に入ろうとしていた。
「あー、疲れた」
なんて言葉が自然と口から出てくる。
高校では模試が近いし、一年生である柊子は部活もおろそかにはできない。特にバスケの試合が近いとなれば尚更だ。そして、家に帰れば家事に宿題。すべきことが怒涛のように押し寄せて、倒れこむように寝るのが日課だ。だからこそ、一日の終わりの入浴は、柊子にとって最もリラックスできる時間だったのだ。
「おとーさん、あんまり飲みすぎちゃだめだよ」
居間で晩酌の酒を傾ける父に一言告げる。父親である源次郎が片手を振ったのを見て、脱衣所へと向かった。
中川家には母親がいない。
物心ついた時から源次郎と柊子の二人きりだった。母親の行方を尋ねると、源次郎がひどく悲しそうな顔をした。それで柊子は、おぼろげながらも、母が帰る事はないのだと知った。
あれから一度も、母親について聞いたことはない。
離婚、したんだろうか。それとも。
考えながら衣服を脱ぎ捨てる。
少し膨らんだ胸を見て、柊子は唇を尖らせた。
思い切り短いショートカットのおかげで、男の子に間違われることもある。あたしにだって胸くらいあるんだぞと心の中で呟いた。
たっぷりと湯を張った風呂は、中川家の自慢だ。
ゆったりと足を伸ばして入れる広さに、ぴかぴかのタイル。蓋を開けると湯気があふれて、途端に室内の湿度が増した。
「あったかそー」
気を良くした柊子が、かきまぜ棒に手を伸ばす。かきまぜ棒は、湯船の中で分かれている冷たい水とお湯をかき混ぜる、そのためだけに存在しているアイテムだ。そんなの蓋でやればいい、と古くなった棒を捨てようとしたら、源次郎は「父ちゃんがぴかぴかにするから、なっ」と絶対に捨てようとはしなかった。「使ってやらなきゃ、かわいそうだろう」とも言っていた。
「そういうものかなぁ」
あの時の源次郎の慌てぶりを思い出して、柊子は苦笑した。
熊の様な風体の大の男がうろたえる姿など、そうそうお目にかかれるものではない。
湯船の中にかきまぜ棒を入れる。
なんの気なしに、二・三度水中で混ぜたその瞬間だった。
途端に湯船が内側から光りだしたのである。
「な、なにこれ!?」
正確には渦を巻く水の中心から光が溢れているようだった。そのことを柊子が見極める間もなく、光はどんどんと溢れてくる。やがて、浴室全体がまばゆい光に包まれた。
「きゃああ!」
思わず柊子が目をつぶる。
光が収まると同時に、おそるおそる目を開く。
柊子は信じられないものを見た。
そこに、人がいるのだ。
湯船に張られた水面の上、空に浮くように、傅き顔を伏せている。長い銀髪、浅黒い肌の色、身に纏う甲冑が湯気を受けてほんのりと曇った。
驚き腰を抜かした柊子の前で、男がゆっくりと顔を上げる。
「召喚に応じ参上した。倒すべき敵はどこか」
「い……」
金色の男の瞳と目があった瞬間、柊子はようやく我に返った。
「いやあああああ!」
悲鳴と同時に傍にあった洗面器を投げつける。柊子の悲鳴を聞きつけた源次郎が風呂場に駆けつけたのは、その直後のことだった。
コチコチと秒針の音がする。
先ほどから飲んでいるはずのコーヒーは、なんだかちっとも味がしなかった。
柊子がちらりと目の前の男を見る。
人の家の風呂場に突如として現れた男は、やはり平然とそこにいた。なめらかな銀髪が浅黒い肌によく映えている。彫りの深さは西洋人に近い。しかし、和室に西洋風の甲冑がどこまでも浮いている。差し出されたざぶとんにきちんと座っているあたり、余計に奇妙さが増した。
「いやー、懐かしいなぁ」などと笑っているのは、源次郎だ。一人嬉しそうに酒を注ぎ足す。
風呂場に駆けつけた源次郎は、男を叱りつけるわけでもなく、男と柊子を見比べて、「おお、柊子も十六になったんだっけなあ」と満足げに頷いたのだ。
そして、こともあろうに居間で茶を出した。呆然とする柊子に、「お前もそこに座りなさい」と一言告げて。
もう一度風呂に入るかとも聞かれたけれど、そんな気はとうに失せてしまった。
「な……なんなのよ、これ」
柊子が震える手で男を指差す。
「こら、柊子。人様を指差しちゃいかんぞ」
源次郎が柊子の手をはたいた。
「いたっ」
柊子が小さな悲鳴を上げる。
「主」
ざ、と男が身構えた。柊子が疑問に思う間もなく、源次郎の喉下に剣をあてる。よく磨かれた剣に蛍光灯が反射し、源次郎が眩しさに目を細めた。
「おとーさん! ちょっと何やってんのよ!」
柊子が叫ぶ。その剣幕に、男がしぶしぶと剣を仕舞う。それでも何かあれば源次郎に向かえるよう、腰を浮かせたままだ。
「ははは、まあそう怒るな柊子」
源次郎が豪快に笑い飛ばした。
「召喚された剣士は主に仕える。当たり前のことだ、な」
源次郎が男の肩をぽんと叩いた。
「召喚って。何の話よ!?」
男がとまどったように源次郎を見る。
「柊子はまだ何も知らなくってな。お前さんから説明するか?」
「は」
男は律儀に頷いた。柊子と向き合うと、姿勢を一層正し、まっすぐに瞳を見る。
そして、ゆっくりと話し出した。
「我らは異空を漂う流浪の民。異世界への召喚を受け、主の命を全うすることを生業としております。私がこの地に参りましたのも……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
柊子は慌てて立ち上がった。
「あたし、呼んでないってば! ただお風呂を混ぜただけ……!」
「軌道が召喚陣と一致しておりました」
男の言葉に、柊子が絶句する。
「あはは、母さんも立派な召喚士だったが、やっぱ血だなー」
源次郎だけは上機嫌で、何杯目かの日本酒を呑んでいた。
ぽーん、と零時を告げる鐘が鳴る。瞬間に、柊子の中の何かが途切れた。
「あたし、寝る」
柊子が居間の扉に手をかける。
「あんたらどうかしてんのよ! あたしもきっと疲れてる! これ、夢かなんかだわ!」
耳鳴りがするほどの余韻を残して、乱暴に扉が閉められた。片目を瞑った源次郎が、改めて男に向き直る。
「すまんね。リアリストな娘に育ててしまって」
「いえ」
男は頭を振った。即座に立ち上がる。
「どこへ」
「主の眠りを守りに」
「そっかあ。頑張れよ」
源次郎が片手を振る。主の気配を頼りに柊子の部屋を訪れた男は、柊子に変態呼ばわりされて部屋の外に追い出されていた。
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