夢じゃなかった。
絶望的な気持ちで柊子は朝を迎えた。
いいや、起きた時は気持ちよかったのだ。疲れがすっかり癒えて、うんと伸びをして、部屋の扉を開けた。
そしたら、いたのだ。
白銀の甲冑をまとった剣士が、部屋の目の前に。
「おはようございます、主」
一睡もしなかったのだろうか。睡魔の余韻も残さずに、男がきびきびと告げる。柊子は頬がひくつくのを感じながら、男の前を通り過ぎた。無言で階段を降りる柊子の後を、男がついてくる。響く鎧の音が、奇妙な現実感をもたらした。なぜかどっと疲労感が押し寄せる。
台所につくと、手馴れた仕草でみそ汁を作り始める。朝ごはんを作るのは、柊子の仕事だ。お弁当もそう。代わりに、夕飯は可能な限り源次郎が作っていた。どちらからともなく決めた中川家のルールだった。
視線を感じて振り返る。男が台所の片隅に立ち尽くしていた。白銀の甲冑というファンタジーな衣装が和室にどこまでもそぐわない。おたまを手に、柊子はため息をついた。
「そこらへん、適当に座ってたら? もうすぐ朝ごはんだし」
「主が立っているのに座る道理はありません」
「あるじって」
「私を召喚したあなたが、私の主。私はその忠実な僕です」
生真面目な物言いに、なぜか柊子は罪悪感を覚えた。これではまるで、自分が悪いみたいだ。
「いいから、座って。命令」
おたまでテーブルの端の席を指し示す。ためらいを見せた男は、再度おたまで席を指されると、しぶしぶといった様子で座り始めた。
「お客さん用のしかないけど」
そう言いながら柊子が男の前に箸と箸置きを並べる。その仕草を、男は不思議そうに眺めていた。
「ふあ〜。いい天気だな」
ぼりぼりと胸をかきながら、源次郎が居間に現れた。だらしなくはだけたパジャマから胸毛が覗く。ポストから取ってきたばかりのはずの新聞は、なぜかすでにくたびれていた。
「おはよ、おとーさん」
「おお、おはよ。おつとめごくろーさん」
源次郎はそこに座る男を見て笑いかけた。男が軽く会釈をする。
「はい、ご飯。あたし今日も部活あるから、ちょっと遅くなるよ」
「おお」
てきぱきと朝食の支度をしながら、柊子が告げる。新聞を広げながら朝食を食べる源次郎は、聞いているのかいないのかよくわからない返事をした。
「それで」
柊子がちらりと男を見る。
「この人はどーすんの?」
「どうするもこうするも」
源次郎が行儀悪く箸を舐める。鯵の開きの余韻を惜しむかのようだった。
「私は主と共に」
平然と告げられた言葉に、柊子は思わず立ち上がった。
「絶対イヤ! だめだよ! ついてなんか来ないで!」
あまりの剣幕に、男が目を丸くする。
「しかし、主」
「しかしもかかしもないの! あたしがいやって言ったら、いや!」
「おい柊子。それはないだろう」
源次郎がなだめるように言った。
学校に得体の知れない男と一緒。おまけにこんな西洋甲冑野郎。そんなのは絶対に御免だ。
「イヤなんだから!」
叫ぶと同時に自室に駆け出す。速攻で制服を着ると、鞄をひっつかみ、柊子は玄関に向かって駆けた。
「主」
「ついてこないで!」
言い捨てると、振り向かず玄関の扉を閉める。
そのまま柊子は全速力で学校に向かった。
長い悪い夢を見ているみたいだ。
お風呂の中から現れた奇妙な男。
別に害を成すわけではないけれど、なんだかおとーさんはアイツの肩を持つし。
部活中も授業中も、柊子は上の空だった。
ついてくるなと言ったら、とても困った顔をしていた。
悪い人ではないのかもしれない。
でも。
ぽきりとシャープペンが折れる。
欠けた芯がノートの上を転がっていくのを、柊子はぼんやりと見つめていた。
家に帰るのをこれだけ億劫だと思ったことはない。
柊子は玄関の前でため息をつくと、扉を開けた。そして、目を丸くしたのだ。
そこに、男がいた。
朝、ついてくるなと柊子が言った、その場所のままで。
「な……に、してるの?」
「お待ちしていました」
柊子の目が瞬く。
「ずっと……?」
「それが勤めですので」
男が当然といったように答える。
「馬鹿じゃないの!?」
柊子は激昂した。冷え切った男の手を掴んで、居間へと大股に歩き出す。
「主?」
「あるじじゃないわよ、あたしは、柊子!」
「しゅうこ」
「もう馬鹿、本当に馬鹿!」
ストーブに火をつけようとしてもなかなかうまくいかない。柊子はいらつきのままに叫んだ。
「もう、こんな時におとーさんはどこ行ってんのよ!」
「源次郎殿は、今日遅くなると」
「伝言板代わりに使われてんじゃないわよ!」
「主」
「柊子!」
「……しゅうこ」
「そう」
しん、と冷えた居間の中で、柊子は膝を突き合わせて座った男の手を握っていた。その手が凍るように冷たいのは、自分のせいなのだ。
ようやく火のついたストーブが、ゆっくりと活動を始める。
少しだけ体温が男に移ったのを確認して、柊子は口を開いた。
「……あんた、名前は」
「イナクタプト」
男が口にした名前は、まるで馴染みのない響きだった。
「イナクタプト。あんたさ、帰ったほうがいいよ。あたしは倒したい敵もいないし、あんたをどうこうもできない。きっと、もっといい人がいるって」
諭すように言う。
「ある……」
「柊子」
「しゅうこ、あなたがそれを望むなら」
イナクタプトは厳かに告げた。
「召喚時と逆の魔方陣を描けば、私は元いた世界に還ります」
イナクタプトの手を握ったまま、柊子の動きが止まる。
目が、これ以上なく大きく見開いていた。
「そんな……」
わなわなと、その手が震える。
「そんなの、覚えてるわけないじゃない!」
その日、中川家から何度目かの柊子の絶叫が響き渡った。「今までの中で一番じゃないかしら」とは、ご近所の里中さんの証言である。
【召喚1:イナクタプト・END】