まぜまぜダーリン

 その日、中川柊子は風呂掃除をしていた。
 快活な印象を与えるショートカットは、毛先がくるりと巻いていた。父親似でクセ毛なのだ。
「さーて、お掃除お掃除」
 呟いて、袖を捲くる。蓋の上に置かれていたかきまぜ棒を手にした瞬間、柊子の口元に笑みが浮かんだ。
「あー、これ」
 どうしようかな、と呟く。
 かきまぜ棒でお湯を混ぜたら、戦士が出てきたのはほんの数ヶ月前の話だ。それからあれよあれよと言う間に仲間が増え、今では不在だった母すら家にいる。
 人の縁はどこに転がっているのかわからない。
 そう、どこに。
 柊子はかきまぜ棒に額を寄せた。初めてイナクタプトを召喚した時のことは、今でもよく覚えている。
 そして。
 忘れようもない去り際の出来事。
 柊子の行動により、イナクタプトはこちらの世界に残る羽目になったのだ。
 否。
 大事なのは、そのことではなくて。
「両思い……だったの、かな?」
 疑問符がつくのも仕方ない。柊子自身、恋愛感情とは思っていなかったし、おまけにあの瞬間、イナクタプトが告げたのは、詫びの一言だ。
「申し訳ありません」
 告白として受け取るには無理がある。シチュエーションとしては理解できないでもないが、柊子とてまだ少女だ。できるなら、それなりの言葉が欲しい。
 かくして柊子とイナクタプトは、以前のまま、主従関係が続いていた。
「イナクタプトは……どう思ってんだろ」
「呼びましたか、柊子」
 独り言に真後ろから返事が来た。慌てふためいた柊子が、残り湯のある湯船にかきまぜ棒を突っ込む。
「あ、ううん! なんでもない! 独り言!」
 驚きで口から心臓が出そうだ。動揺を悟られまいと、柊子は無意識に棒を回した。
「そう、ですか?」
 イナクタプトが不審がる。と、その目が見開いた。
「柊子!」
「え」
 異変を察した柊子も振り返る。
 陽の光の下でもわかる。浴槽に、光が満ち始めていた。
「ええええええ!?」
 湯の中からかすかに瞬いていた光は、やがてはっきりとした輪となり、湯船を満たし溢れ出た。柊子には見慣れた、なつかしい光景。しかし、動揺は隠せない。
 やがて光は、浴室全体に広がった。


番外: 「リーマン戦士!? 斎藤さん」


「困りますね」
 黒縁の眼鏡を神経質に指で上げて、湯船から出てきた斎藤さん(仮名)は苦情を述べた。
「え、と……」
 小さく座った柊子が困惑する。
 湯船から出てきたのは、サラリーマンよろしくスーツを身に纏った男性だった。年はイナクタプト達と同じぐらいだろう。黒縁の眼鏡と、よく手入れされた革靴、糊の利いたスーツに七三分けの黒髪、仕草のひとつひとつに切れがあった。
「こちら、いただきますね」
 出されたお茶に口をつけ、それから改めて斎藤さんは口を開いた。
「私は異世界召喚ギルド登録本部のサイトウと申します。こちら、名刺になります。以後、お見知りおきを」
「あ、はい」
 柊子は反射的に受け取った。
「で」
 斎藤さんが眼鏡をクイと上げる。
「こちら、ギルド中川家様でよろしいですね?」
「はい?」
 柊子の目がぱちくりする。
「登録をいただいております。ええと、代表者は信州影虎様。メンバーは……」
「か、かげとら?」
 懐かしくもありがたくない名だ。柊子は唖然とした。
「はい」
 斎藤さんが書類を眺める。
「かの獣が倒されて以後も、職業戦士を願う方は多々いらっしゃいまして。私共は独自の技術で皆様を異世界へ転送させていただいております。影虎様からは、こちらを呼び出し口として登録いただきました」
「よ、呼び出し口って、まさか……!」
 柊子は嫌な予感がした。斎藤さんが顔を上げる。眼鏡がきらりと光った。
「私もお呼ばれいたしましたあの湯船です」
 人の家の風呂を玄関に使おうというのだ、あの男は。
「ち、ちょっと待って!」
 柊子は慌てて頭を振った。
「あたし、聞いてない! なんも聞いてない!」
「なんじゃ、言うちょらんかったのか」
 居間に姿を現したのは、当の本人である影虎だ。
「か、影虎! どうやって……!」
 柊子が絶句した。
「トーコに呼んでもらったんじゃ。全く、お前と来たらちーっとも呼ばん。薄情もええとこじゃ」
「だ、だって部活が」
「ほうかほうか」
 柊子の話もそこそこに、影虎が着流しの袂に無造作に腕を突っ込んで胸を掻く。どうやら話を聞く気はないらしい。
「で、なんも言うちょらんのじゃな?」
 その視線は、イナクタプトに注がれていた。
「え……?」
 柊子が、イナクタプトを見やる。
「知って……た、の? イナクタプト」
「はい」
 イナクタプトは頷いた。
「何度か柊子に話そうとしたのですが……」
 そうだ。
 確かに、柊子は何度かイナクタプトに話しかけられた。
 話のある雰囲気を悟っては、その度に用を見つけて席を立ったのは、柊子の方だった。
 てっきり、イナクタプトの気持ちのことだとばかり思っていた。告白の、やり直しかと。
「あ、あたし……」
 違ったのだ。
 柊子の頬が火照る。耳まで赤くなっているような気がした。
「影虎様ですね。この度は誠にありがとうございました。登録メンバーの確認をお願いいたします。口頭でよろしいですか?」
 斎藤さんが手早く書類を手繰る。影虎は「おう」と鷹揚に頷いた。
「まずは、影虎様。そして、イナクタプト様。それから」
「え?」
 柊子は驚いてイナクタプトを見た。
「イナクタプト、まだ戦う、の? なんで?」
「柊子……」
 イナクタプトの言葉には続きがある。それは柊子にもわかった。わかったけれど、それを聞く前に、足が立ち上がっていた。走り出していた。慌しく靴を履いて、外に出る。止まれなかった。
 この先も、剣を持つ。
 イナクタプトはそう決めたのだ。それは――柊子にとって、これ以上ない拒絶に思えた。





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