まぜまぜダーリン

番外2:「夏と影虎、筧さん」

 平和過ぎて死にそうだ。
 筧さんの家の縁側で西瓜を齧りながら、影虎はそう思った。筧さんの庭は、蝉の声が五月蝿いほどに響いて、夏の空は抜けるほどに青い。焼けるような太陽の熱をはっきりと肌が感じ、傍らにある麦茶を入れたグラスも水滴を纏わせている。縁側の下では、柴犬の太郎が舌を出しつつ涼んでいる。
 うんざりするほどに、夏だった。
「暑いですねぇ」
 団扇を仰いだ筧さんが言った。
 影虎が面白くなさそうに西瓜の種を吐き出す。
「そうじゃな」
 もっと暑い場所に行ったことがある。あれは、どこだったろう。空まで血のように赤い世界だった。目を開くと同時に熱気が押し寄せた。すぐに始まった戦闘で、己の肌を滑るのが汗だか血だかもわからなくなったのだが。
 刃のぶつかる音、鍔迫り合いの感触、血、血。
 踏み込んだぬかるみは血だまりだった。楽しかった。
 あの日が随分と遠く思える。
 今は下げる刀すらない。柊子に没収されたのだ。腰がやたらに軽いのはそのせいだ。
 影虎が嘆息した時、筧さんがぽつりと言った。
「影さんは、律儀だねぇ」
「何がじゃ」
「私が治したからと、小まめに顔を出して」
「恩があるき」
 その割に、来る度にやれ夕食だおやつだともてなされているのは影虎なのだ。
 時々、思う。
 影虎が訪ねる度、誰もいない診療所。自分が来なければ、この老人はひとりで庭を見ているだけなのだろう。それを筧さんが苦にするとも思えないが、影虎にはぞっとしない光景だった。
「あんたんところは、はやっとらんのか」
 今も無人の診療所を横目に、影虎が言った。
「誰も病気をしないのは、いいことですよ」
 筧さんがゆったりと微笑む。
 それがしゃくに障るのはなぜだろう。
 影虎が憮然とした時、来訪者があった。
「邪魔するよ、じーさん」
 横柄な物言いで、門扉を足蹴に入ってくる男。年の頃は三十前後だろう。派手なアロハシャツに白のジーンズ、金のチェーンネックレスが胸に光っていた。細身のサングラスを外そうともしない。
「客か」
 影虎が立ち上がる。己は不要だと思ったのだ。
「おや」
 筧さんが顔を上げるのと、男が縁側に土足を乗せるのは同時だった。
「どうよ、じーさん。そろそろ決まったかい?」
 縁側の下で太郎が怯える気配に、影虎が目を細める。
「何度言われてもねぇ、私はここを離れませんよ」
 筧さんが言った時、男が筧さんの胸倉を掴んだ。
 その手を、影虎が掴む。
「なんだ?」
 あ? と威嚇しながら、男が影虎を睨んだ。
 影虎の口に笑みが上る。
「邪魔すんのか? お?」
 影虎は、無言で腕に力を込めた。男の手首が悲鳴を上げる。
「いっ……」
「影さん」
 筧さんが困惑したように影虎を見た。
「これはなんじゃ? あんたの血縁か?」
「土地屋さんですよ。この土地が欲しいそうなんですが」
「他人か」
 じゃあ加減せんでもええわな、と影虎がさらに手に力を込める。男が低く呻いて筧さんから手を離した。同時に、影虎も男から手を離す。
「なんだてめぇは! 紫狼組だってわかってアヤつけてんだろうな!」
 男が組のバッジを示しながら叫んだ。
「なんじゃ?」
 影虎が男のシャツからバッジを取った。あまりに勢いよく毟り取られたので、その部分だけシャツに穴が開いた。
 影虎は珍しいものでも見るように、バッジを太陽に翳した。ヤクザさんの生き方、その道を示す金バッジがきらきらと輝く。それをまじまじと見て、それから、影虎は指先に力をこめた。
 みし、と音がして、金バッジがふたつに折れ曲がった。
 つまらなそうに片眉を動かした影虎が、ゴミのようにそれを指で弾く。
 バッジは、きらきらと光ったまま、筧さんの庭の朝顔のほうに飛んでいった。
「これがどうしたんじゃ?」
 影虎が振り返る。声も出ずに見ていた男は、それで我に返った。
「てめぇ、覚えてろよ!」
 そのまま一目散に帰っていく。
「なんじゃ、もう終わりか」
「影さん、まずいですよ」
 筧さんが呟く。
「なにがじゃ」
 影虎がどかりと縁側に腰掛ける。
「あんたが困った時は力を貸す、言うたろう」
「そうではなくて、ですねぇ」
「いらん世話じゃったか」
「助かりましたよ」
「じゃあ、ええじゃろが」
 影虎が二つ目の西瓜にかぶりつく。その姿を、筧さんは心配そうに見守っていた。

 それから、間をおかずに男は戻ってきた。
 面子を潰されたと叫び、五人ほどの仲間を連れて。
 五人が互いを支えあって筧さんの家から出て行くのに、五分はかからなかったと言う。

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