まぜまぜダーリン

「ちゅーことがあったわ」
 戻ってきた影虎から話を聞いた柊子は、血の気が引くのを感じていた。
「か、影虎、それって……!」
「なんじゃ」
 夕餉の鯵をつまみながら、影虎が柊子を見る。
「全部片付けた。問題はあるまいて」
「あるだろ」
 珍しく口を挟んだのは、源次郎だ。
 読んでいた夕刊をばさりとたたむ。射るように睨む影虎から視線を外すことなく、源次郎は告げた。
「筧診療所界隈の土地が地上げ屋に狙われてるってーのは、有名な話だ。タチが悪いのが一枚噛んでるってな。やっつけておしまい、なんてことにゃならねーぞ」
「なんじゃと?」
 影虎の目が細められる。理解しがたいと顔に書いてあった。
「筧さんは手を出してなかったろーが。でも、ちゃんと断ってたはずだ」
 そういえば、そうだった気がする。影虎の目の動きを、源次郎は見逃さなかった。
「あれが筧さんの戦い方だ。おめーさんは、邪魔をしたんだ」
 源次郎の言葉に、影虎が勢いよく立ち上がった。はずみで、椅子が後ろに倒れる。
「か、影虎。おとーさんも」
 おろおろと柊子が二人を見比べた。イナクタプトは黙って成り行きを見ている。
「なんじゃと……?」
 影虎が凄む。その殺気にも、源次郎は怯まなかった。
「剣ブン回すだけが戦い方じゃねぇってことだ」
 どちらも視線を外そうとはしなかった。見えない火花が互いの間を弾ける。
 張り詰めた空気の中、先に動いたのは影虎だった。
「ふん!」
 くるりと背を向け、大股に居間を出て行く。
「影虎!」
「追うな、柊子」
 源次郎が止めた。
「だって、おとーさん」
「だってじゃねぇ」
 源次郎が湯呑みに手を伸ばす。
「ご指導ありがとうございました」
 イナクタプトが律儀に礼を述べた。
「別に大したこた言ってねーよ。けど、まあ、なんだなぁ……」
 ずずっと音を立てて茶を啜った源次郎が己の頬を掻いた。
「ちーっとややこしいことになるかもな」

 源次郎の懸念は、翌日現実のものとなった。
「阿呆らしいの」
 影虎が面倒そうに頭を掻いた。その手に西瓜が下げられている。
「先生に迷惑かけたんだから、ちゃんと謝ってよね!」 と柊子に持たされたのだ。
「お前が悪い」
 おまけに、お目付け役としてイナクタプトまで同行する始末だ。
「どうせ誰もおらんき。おい、じーさん!」
 影虎が筧診療所のドアを無作法に開けた時だった。その動きがぴたりと止まる。
 普段は無人の診療所、そこに人があふれていた。皆肉付きの良い体格をしている。おまけに、昨日来た顔も何人か見えた。影虎の顔が険しくなる。それを見たイナクタプトも、わずかに身構えた。
「貴様ら、こりんの」
「なんのことでしょうか」
 さらりと言ってのけながら、白いスーツの男が影虎の前に歩を進めた。他の男達とは、雰囲気が違う。どちらかといえば、弁護士の方が似合いそうな生真面目な雰囲気を醸していた。
「昨日こちらで怪我をしたので、治療に来たんですよ。ここは診療所ですからね」
「なんじゃと……!?」
 気色ばんだ影虎が、診療室を見やる。筧さんが男の治療をしている姿が見えた。
 あれは、昨日自分がのした男だ。
 わかった瞬間に、影虎は大股に室内に踏み入った。放り出された西瓜を、イナクタプトが慌てて受け取る。
「なにをやっとるんじゃ」
 不機嫌さを隠そうともせず、影虎は唸った。
「治療ですよ」
 筧さんが淡淡と答える。男の手に添え木をした包帯が巻かれている。
「大袈裟じゃ」
 折った覚えなどない。人に危害を加えないという柊子の言いつけは、可能な限り守っているつもりだ。
「痛い、と本人さんが言うのでねぇ」
 筧さんが頭を掻いた。途端に、男が呻きだす。
「痛ぇよ、痛ぇよ、これじゃ仕事もできねぇよ」
 その声を聞いた影虎の表情がすっと冷めた。虫かゴミでも見るような目で、男を見下げる。
「黙らんか」
 足元を流れる冷気のような気配を感じ、男が黙る。
 治療が終ったというのに、男たちが帰る気配がまるでない。「だるい」と言いながら、待合室のソファに寝転んで居座っている。一度、親子連れが来たが、その雰囲気に気圧されて帰ってしまった。筧さんが帰宅を促しても、どこ吹く風だ。
「困りましたねぇ、これじゃ営業できませんねぇ」
 そう言ったのは、先程の白スーツの男だ。筧さんの前に屈むと、名刺を差し出す。
「事業コンサルタントの白井と申します。このあたりの土地は開発話が出てましてね。よろしければ、どこか適当な場所を紹介しますが。先生ほどの腕の方でしたら、どの土地でもやっていけますよ」
 白井の名刺をちらりと見た筧さんは、穏やかに微笑んだ。
「ここはねぇ、大事な場所だから」
 今はもういない家族と過ごした大切な家なのだと、筧さんは言った。
 直後、窓ガラスの割れる音が待合室から響いた。
「あ、すみませーん。足をすべらしちゃいましたー」
 棒読みで男が言う。
「俺も転んじゃったー」
 と言いながら、他の男が別の窓を割った。影虎の頭にかっと血が上る。
「貴様ら……!」
「影虎!」
 イナクタプトが影虎の肩を掴んだ。殴りかかりそうになる影虎を押し止める。
「離さんか!」
「わきまえろ、影虎」
 それでは泥沼になるのだと、イナクタプトの視線が言っていた。構わずに、影虎がイナクタプトの手を振りほどく。その時、診療所のドアが開いた。
「せんせー、うちの馬鹿が怪我したんで見てくれや」
 大粒の汗をかきながらやってきたのは、源次郎だ。大工現場からそのまま得物を手にして来たらしい。共に来た仲間は皆、手にツルハシやらシャベルやらを持っていた。
「お? なんだお客さんか〜?」
 言った源次郎が、ツルハシをどかりとソファに置く。ねそべっていた男の頭上すれすれだ。その衝撃に、診療所の床が軋んだ。男達の顔色が変わる。
「悪ぃな、汗で滑ったわ」
 源次郎が笑い飛ばした。
「なんだと? てめぇ!」
 男が叫ぶ。
「やんのか?」
 源次郎が笑みを引っ込める。大工達は、手にした工具を構えた。
「いいえ、私達の治療は終りました」
 白井が悠然と告げる。男達に帰るよう告げ、白井は玄関で振り返った。
「また来ますよ、先生」
「待たんか!」
 ドアが閉まる前に、影虎が駆け出す。その鼻先に、源次郎がツルハシを突きつけた。
「やめろ。余計ややこしくなるだろが」
「なんじゃと……?」
「はー、しかし、診療所に入る口実を作らせたのはまずかったな」
 源次郎が頭をがしがしと掻いた。
「こんな手、毎度は使えねーぞ。どうすんだよ」
「皆、やっちゃる!」
「それじゃダメなんだよ。なあ、先生、どうす……」
 源次郎が筧さんを振り返る。
 筧さんは、静かに、割れた窓ガラスの破片を拾っていた。
 わずかに曲がった腰が、筧さんがここで過ごした歳月を物語る。古びた診療所の、あちこちに思い出が満ちていた。
 割れたガラスを拾う、その指先の皺にも。
 ガラスの重なりあう音がひとつする度に、影虎は胸に鉛が沈むような感覚を覚えた。

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