湯船を前に、柊子は憂鬱さを隠せなかった。
「はあ」
溜息をついては、張った湯を眺めている。
源次郎曰く、「尤も簡単かつ単純な解決方法」は確かに有効だった。戻ってきたイナクタプトと影虎の顔を見ればわかる。晴れ晴れとしていた。特に影虎の機嫌の良さは凄まじかった。大暴れしてすっきりしたらしい。
「柊子」
帰ってきたイナクタプトは、柊子にそっと告げた。
「ありがとうございました」
「え? なにが?」
「殺すな、と命じてくださったことです」
あの言葉がなければ、影虎を侮辱したあの瞬間、自分はあの男を斬っていたとイナクタプトは言った。
「影虎のあのような姿を初めて見ました」
屈辱を甘んじて受ける、そんな男ではないのだと。イナクタプトの瞳に、怒りの余韻が残っている。柊子は、イナクタプトと影虎の友情に、少し触れた気がした。
それは良かった。そこまでは良かった。
問題は、これからだ。
源次郎は言ったのだ。
「面倒くせぇから、全員倒して召喚相手にしちまえ。主にゃ逆らえなくなるんだから、それでいいだろが」
どこまでもその通りだ。
柊子はぐうっと頭を垂れた。もうやるしかない。
「あー、もう!」
自棄になった勢いでかきまぜ棒でお湯を混ぜる。湯船に瞬く間に光が満ち、やがて浴室全体を包み込んだ。
町のはずれにあるヤクザさんの事務所が、一晩で壊滅したのは、有名な話だった。ボロ雑巾のようになった男に助けを求められた通行人が警察を呼び、駆けつけた警察はあまりの惨状に消防を呼んだ。抗争か、なにがあったとの問いに、誰一人答えなかった。怪我がひどくて答えられなかったとの噂もある。
源次郎達大工仲間が、なぜか無償で事務所の建て直しを行ったのも謎を呼んだ。
しかし、誰も気づいていない。
ヤクザさんの名前が、こっそり「中川組」に改名されているのを。
平和過ぎて死にそうだ。
筧さんの家の縁側で麦茶を飲みながら、影虎はそう思った。
あれから、三日。用心に越したことはないと通ってみたが、いらぬ心配だったようだ。今日も診療所は暇で、筧さんは隣でお茶を飲んでいる。
「あのねぇ、こんなの、もうこれっきりなんだからね!」
柊子はいたく怒っていたが、なんだかんだでうまくやってくれたらしい。男達が登下校の最中に「姐御、お気をつけて!」と見送りに来るのが最近の悩みだとか。
「腐っても主じゃのう」
影虎は妙なところで感心した。蝉が五月蝿く鳴いている。木の影が濃い。じわじわと、暑さが込み上げてくるようだった。
「暇ですか?」
筧さんが聞いた。その頬に、まだ痣がうっすらと残っている。それを見た影虎は、憮然とした顔で告げた。
「あんたの庭はこれでええ」
頷くように、風鈴が一度だけ鳴った。
【夏と影虎、筧さん・完】
2009.8.3-8.8