まぜまぜダーリン

 筧診療所は、ひっそりと静まり返っていた。
 常ならば筧さんがいるはずの家屋部分も、電気すらついていない。空気が止まっている。人の気配がまるでなかった。
「おらんのか!」
 影虎が蹴破るようにドアを開ける。
 老犬の太郎が怯えたように縁側の下で鳴いた。構わずに、診療所に上がりこむ。影虎の肌が、剣呑な雰囲気の余韻を感じ取った。
 床に落ちた書類も、土足で踏み込まれたらしき畳の後も、湯飲みがひっくり返って割れたままになっているのも、ひとつも筧さんらしくなかった。
 なにかあった、どころではない。確実に、あったのだ。
 影虎が辺りを見回す。診療所の筧さんの机の上、そこに、置手紙らしいものを見つけた。
 乱暴にそれを掴むと、目を走らせる。踵を返したところで、診療所の入り口に柊子とイナクタプトが姿を現した。
「影虎!」
 柊子が驚く。
「ちょうどええ」
 影虎が書置きに記された場所を柊子に示した。
「これはどこじゃ」
「ち、ちょっと影虎。まさか行く気じゃ……」
 慌てる柊子の襟元を、影虎が掴む。勢いよく顔を近づけて、影虎は言った。
「余計なこと言わんとき。主でも容赦せんぞ……!」
 間近で放たれる殺気に、柊子が息を呑む。
「影虎!」
 止めようとしたイナクタプトを、柊子が目で制した。
「行くんだね?」
 影虎に確認するかのように覗き込む。
「当たり前じゃ」
「……わかった」
 頷いた柊子が、わかりやすく場所を告げる。言いながら、気づいた。これは地上げを行っているという噂のヤクザさんの事務所だ。筧さんはそこにいるのか。
 最後に「気をつけて」と言い添える前に、影虎は駆け出していた。
「柊子、大丈夫ですか」
 壁沿いに崩れるように座り込んだ柊子に、イナクタプトが駆け寄る。
「うん。あー、もう! 服びろびろになってるー!」
 お気に入りのチュニックが影虎の掴んだ部分でねじれていた。生地が伸びきっているのを見た柊子が悲嘆の声を上げる。
「あー、もう!」
 仕方ないなあ、と呟いた。
「話全然聞かないんだから。おとーさんにちゃんと聞いてきたのに」
 柊子が俯いた。当てられた殺気に涙が滲んだ。怖かった。
 泣いている場合じゃないと、涙を拭く。それから、柊子は顔を上げた。
「イナクタプト、頼まれてくれる?」
 涙目の主を見て、いささか驚きながらもイナクタプトは頷いた。

 告げられた場所は、この町の中だった。
 いつか、柊子達と歩いたこともある、オフィスビルの一角。影虎の足が加速する。着流しの裾が小さな風を起こした。

 紫狼組と書かれた事務所のドアを蹴破る。けたたましい音に、部屋の中にいた男達が立ち上がった。十数人はいるだろう。各々、鍛え上げられた体格が服の上からでも察せられた。男達が身につけた金のネックレスが音を立てる。
「誰や!」
 影虎に向けて男の一人が吼える。影虎も殺気を隠そうとはしない。
 ものものしい雰囲気の中で、口を開いたのは白井だった。
「あなたでしたか」
 男達の間から、ゆっくりと現れる。
「いやあ、来ていただけてよかった。なにせ、先生は連絡先など知らないの一点張りで」
 白井が手を叩く。
 その肩の向こう、男に囲まれて膝をついている筧さんの姿が見えた。頬に、何箇所も痣が出来ている。それを認めた影虎の目が見開いた。
「随分やってくれたみたいじゃないですか。うちは穏便に進めようとしたんですがねぇ」
 白井が煙草に火をつけた。
 一息吸い、顔を上げる。その表情には、怒りが滲んでいた。
「ウチにも面子ってモンがあるんだよ……!」
 白井の言葉は、影虎を素通りした。
 影虎は、ただ、筧さんを見ている。
 筧さんは、影虎を見ようとはしなかった。振り返ろうともしなかった。
 その背も、腰も、老齢のために曲がっている。
『あれが筧さんの戦い方だ。おめーさんは、邪魔をしたんだ』
 源次郎の言葉が蘇る。
 影虎は唇を噛んだ。
 掟は、世界ごとに違う。力だけで解決するとは限らない。
 それを知っていたはずなのに、どこかで傲慢になっている自分がいた。力さえあれば、どうとでもなると。
 その結果が、これだ。
 筧さんの顔に出来た痣を見た。口の端にこびりついた血を見た。
 なにより、涙を。
 診療所に残された置手紙、その隣に添えられた、割られた写真立て。今は亡き筧さんの家族を写したその写真についていた、一粒の、あれは涙だ。
 影虎は歯を食いしばった。
 恩を受けた。助けると言った、どこがだ。
 影虎が拳を握り締める。赤黒く血管が浮き出た。
「わしが……詫びを入れればええんじゃな」
 白井が煙草をくゆらす。影虎は、歯噛みした。ギシギシと音が鳴るほどに歯を食いしばって、それから膝を折り、ゆっくりと地に掌を着けた。
「すまんかった……」
 深々と頭を下げる。
「影さん……!」
 筧さんが驚いた。駆けつけようとして、阻まれる。
「わしが、わかっとらんかった。あんたらに迷惑かけるつもりはなかったんじゃ」
「そうかい」
 白井が影虎の頭を踏んだ。靴の汚れを取るように、こすりつける。
「ぐ……」
 ともすれば殴りかかりそうになる衝動を、影虎は耐えた。噛み締めた奥歯の合間から、血が流れる。頬の肉を切ったことにも気づかないほど、影虎は激昂していた。ぶるぶると震える拳が、怒りの吐き場を探してる。
「影さん!」
 もういい、と筧さんが叫ぼうとした時だった。
 事務所の折れ曲がったドアがノックされた。
 白井達が顔を見合わせる。一番ドアの近くにいた男が、出た。
「なんだてめ……」
 言葉半ばで、男が宙を舞う。蹴られたのだと全員が理解するのに、数秒を要した。
 その間に、悠然とした足取りで室内に足を踏み入れた男。深く被った白いフードのせいで顔は見えない。だが、服の合間から覗く褐色の肌と銀髪に影虎は見覚えがあった。
「イナ……」
「どこのモンじゃ!」
 殴りかかる男を、イナクタプトの剣が峰打つ。男が白井に向けて吹き飛んだ。白井が影虎の頭から足を離して男を避ける。打ち付けられたテーブルごと、男はひっくり返った。辺りに花瓶の破片が飛び散る。
「影虎」
 囲んでくる男達には目もくれず、イナクタプトが影虎に刀を投げた。
「我が主の命だ。殺すな」
 けれど、とイナクタプトは続けた。
「討ち漏らすな。一人もな」
 刀を受け取った影虎の目に、光が宿った。
「承知!」
「なにを馬鹿な! そんなことしたらどうなると思って……」
 白井が叫ぶ。その眼前に、鬼神と化した影虎がいた。


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