鬼神法師 酒天!

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 むかし、むかし。
 あるところに、一人の法師がおったとさ。
 名は飛車丸。釈杖の代わりに朱棍を持つ変わり者じゃった。性格は至って真面目。大きな体躯に似合わず、優しげな顔をしとる男じゃ。長く伸ばした黒髪を一纏めに縛り、申し訳程度に法衣を纏う。元より帰依したのは仏のためではなく、それゆえに服も作法も男にとってはどうでも良かったのかもしれぬ。
 それでも、男は法師じゃった。
 人々に請われるままに鬼を諭し、必要があれば調伏もする。
 民の信頼厚い法師じゃった。
 その日も飛車丸は鬼退治に出かけた。
 都外れにある山を根城にしているという鬼は、酒天と名乗った。都に出向いては物を盗み人を殺め、悪行の限りを尽くしておる。飛車丸は説得を試みたが、まるで聞く耳を持たぬ。さて仕方ないと飛車丸は説得を諦めた。人々の望みどおり、鬼を封じる。そのために、山を埋め尽くさんばかりの壷を用意した。これだけあれば、どれか一つには入れられるだろうと考えたのじゃ。
 死闘は三日三晩、夜も山が燃えるかの如く数多の炎と血を流しながら、続いた。
「これで終いじゃ」
 己の勝ちを確信してか、酒天は嗤った。雅に着こなしていた都の着物も、今や土に汚れ血に染まり、ところどころが裂けている。額から突き出る角さえなければ人と寸分違わぬその容姿、形の良い指が最後の壷を割った。
 破片が当たりに飛び散る。
「俺を封じる壷はもう無い」
「いいや」
 ぜえぜえと朱棍にもたれながら、飛車丸は答えた。疲弊しきっているのが一目で知れるような有様じゃ。それでも、瞳は光を失っていなかった。
「壷ならあるさ」
 静かに指で印を繰る。酒天が怪訝そうに眉を寄せた。
「私の中で反省するがいい! 酒天!」
 己の額に指をつけ、飛車丸が叫んだ。完成した言葉は呪文となりて力を持つ。瞬く間に、酒天の身体が引っ張られていった。
「し、しまったあ!」
 竹林の中に、酒天の悲鳴が残響となって木霊する。
 それも失せ、笹の葉の落ちる音だけが耳に届くようになると、初めて、飛車丸は息をついた。
「終りました、よ……」
 呟いて、膝を折ると、もう止められなかった。そのまま、飛車丸は身体を投げ出すようにその場に倒れ伏したという。


 それもこれも、今はむかしの物語――



其の一 「はじめに法師在り」


 鬼の社、と呼ばれる場所がある。
 少年はそこを目指していた。
 山中である。元から襤褸に近かった少年の草履は、獣道を通るうちに意味を成さないほどに壊れていた。剥き出しの足に血が滲む。草が皮膚を切り息があがる。まだ年端もいかない少年にとって、道のりは過酷だった。
 それでも、彼はそこに辿り着かねばならなかった。

 少年の村には、守るべき伝承があった。曰く、
「白羽の矢が立った家は女を差し出す」
 幼い頃、少年は意味がわからなかった。毎年、村から少しずつ女が消え、やがて少年の家に件の白羽が立った時、少年の母が消えた。
 まるで嫁に行くかのように白無垢を着て、上等な桐の箱に入れられ、母は山へと運ばれていった。
 あの時、どうして自分はただ見送ったのだろう。
 少年は無意識に歯噛みした。駆けている最中の拳を、強く握り締める。
 今なら、今なら意味がわかる。

 母は、人身御供に出されたのだ。

 あれから時が経ち、また少年の家に白羽が立った。妹のさちはまだむっつだ。おっかあの忘れ形見、鬼などに、渡してなるものか。だが、少年の決意とは対照的に、父は、
「そうかぁ」
 と呟いたきり、座り込んでしまった。さちを膝に乗せ、その頭を撫でながら、ただ「そうかぁ」と呟いていた。
 渡す気なのだ、と少年は思った。
 そんな馬鹿なことできるか、と父に抗議した。殴られた頬は今でも痛む。父は言った。
「おめ、どっちが馬鹿だ! んなことしたら、みぃんな鬼に食われてまうんだ!」
「じゃあ逃げよう! おっとう、逃げよう!」
 少年は妹の手を掴んだ。その頬を、父親は殴りつけたのだ。
「滅多なこと言うでねぇ!」
 ぶるぶると声を震わせながら、父は叫んだ。
「田吾作さんとこも権兵衛さんとこも、やってんだ。うちだけ逃げるなんてとんでもねぇ!」
 じゃあさちが食われて平気なのかとくってかかろうとして、少年は見た。父の瞳が深く悲しみに揺れているのを。

 気づけば、少年は駆けていた。
「畜生、畜生……」
 無意識に口から呪詛が紡がれた。
 葉が頬を叩く。足の感覚がなくなり始めた頃、唐突に藪が途切れた。少年が思わず立ち尽くす。その視線の先に、鬼の社が建っていた。
 社は、朽ちていた。
 屋根はところどころ破れ、扉は壊され、障子は格子を残すのみ。柱や屋根の合間には、どこからともなく飛んできた種子が、静かに芽吹いていた。
 一体いつからそこにあるとも知れない風情で、社は朽ちていた。
 なにもいない。
 唐突に覚えた感情に愕然としながらも、少年は足を進めた。
 以前に、村の老人から聞いたことがある。あの山の社には、鬼がいると。人の命を代償に願いを聞く、そんな鬼がいるのだと。
 構わない、と思った。さちを食おうとしている、むかいの山の鬼共。あれをどうにかしてくれるなら、自分がどうなろうとも構わない、と。
 少年は社の前に立った。
 鬼どころか、生物の気配がまるでない。
 鳥の囀りはいつの間にか消え、虫達の姿も失せている。
 初めからこうだったろうか。それとも少年が現れたことで驚き消えたのか、気づけば辺りは不気味なほどの静寂に包まれていた。
 崩れかけた社だけが、変わらずそこにある。
「頼もう」
 少年は声を上げた。声が、杉の木立の合間に、瞬く間に吸われていく。
 すると再び、あたりは静まり返った。
「頼もう」
 もう一度、少年は声を上げた。
 変わらぬ静謐に焦りを感じる。じっとりと、掌に嫌な汗をかいた。
 もし、ここに鬼がいなければ、さちをどうやって守ろう?
 あの鬼達は群れていた。せいぜいの武器が草刈鎌だとして、少年に妹を守りきれるとは思えなかった。
 さちを連れて逃げてしまおうか。
 どこへ?
 じわりと浮かんだ涙を払うように、少年は足を踏み出した。崩れかけた階段を踏むと、腐っていた木はたやすく折れた。それよりも早く、少年は社に駆け上がった。
「おらはふもとの村の正太だ! ここの鬼に頼みたいことがある!」
 声の限りに叫びながら、社の扉を叩く。今は格子のみ残された扉の奥に、崩れた神棚が夕陽を受けているのが見えた。
 嗚呼、本当に。
 なにもいないのだ。
 絶望にも似た気持ちで、正太が俯いた。
 その時だ。
 のそり、と正太の視界の片隅で暗がりが動いた。
 驚き目を見張る正太の前で、格子の中の影に手が生えた。生えた、ように見えた。逞しく太い腕は拳を作ると、手首をしならせて伸びをした。
「ああ、よく寝た」
 ふわあ、と欠伸を噛み殺す、その声。正太は答えられなかった。
「ん……お主は?」
 寝惚け眼をこすりながら、男がゆっくりと起き上がった。



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