なるほど、妹さんがね、難儀なことだねと男は呟きながら、山を駆け下りた。
正太を背負っているのに、重さを微塵も感じさせない。風が唸って耳元をすり抜ける度に、正太は後ろを振り返った。木立がどんどん遠ざかる。男の足が地を蹴るように駆けた。
「生憎私は鬼ではなく流浪の法師だが、なにかの役には立てるかもしれないよ」
言葉にあわせて、男の髪が揺れた。長く黒い髪を一つに纏めて縛っている。伸びた前髪の合間から、額が割れたような傷跡が見えた。年季の入った山伏衣装は、正太の着物と同様に襤褸だった。
「ちょうど今晩の宿を探していたら、あの社があってね。場所を借りていたら、お主が」
これもなにかの縁だろう、と法師は言った。「飛ぶよ」と呟いて、岩を蹴る。浮遊感に正太がとまどっていると、すぐに着地の衝撃が訪れた。
「やあ、よく走った」
己に感心するように法師が呟く。衣の裾をはたく杖は、杓杖ではなく血の様に赤い棍だった。
「さあ、着いた。ここがお主の村かな」
法師に促されるように正太が顔を上げた。まばらに立つ人家、見慣れた畑。そこに実る乏しい作物。確かに、自分の村だ。
「早え……」
自分が登るのにどれだけの時間が要ったろう。正太が呟くと、「駆け下りたからね」と法師が涼やかに答えた。
「正太!」
法師の背から降りる正太の姿を見つけた村人が声をかけた。
「おっとう!」
正太が答える。駆け寄った父親は、正太の傍にいる法師を見て怪訝な顔をした。
「おっとう、法師さまだ! これでさちは……」
「いらねぇ!」
正太の話を遮って、父親は叫んだ。
「正太、この阿呆! なんだってこんなの連れてきた!」
「だって、おっとう、さちが……」
「ええんだ!」
父親の言葉に正太が目を見開く。何を言ってるのか、この男は。
「あんたも帰ってくれ」
父親が法師に告げた。正太がおそるおそる法師を見上げる。
法師が静かに目を細めた。
「わかりました」
ごく穏やかに、法師は告げた。
「私は流れの法師です。村の掟を破るつもりはありません」
「法師さま!」
正太の声に振り返ることなく、法師は歩き出した。村の外へと、歩を進める。追おうとした正太の肩を、父親が掴む。
「正太!」
「いやだ、だって……!」
法師はあたりをぐるりと見回した。鬼の塒となっている山を見た時に、少しだけ眉を寄せた。
「正太くん、だったか」
ぽつりと法師は呟いた。父親の腕を振り払おうとしていた正太が動きを止める。法師はゆっくりと振り返った。
「大丈夫。なにも心配はいらないよ」
穏やか過ぎるような笑みを見せ、それから、法師は山の暗がりへと歩き去って行った。
山の夜は早い。墨を一面に撒いた様などこまでも黒い空だった。月明かりが山村を照らす。虫達の鳴き声以外、なんの物音もしなかった。どの家もぴっちりと戸締りをして、早々に明かりを消してしまっている。それもこれも、正太の家に刺さった白羽に遠慮してのことだった。
「にいに」
白い着物に身を包んださちが、正太の腕を引いた。それだけで、正太は泣きそうになった。
「おら、おににくわれるの?」
「さち」
さち、さちと名を呼びながら、正太はさちを抱き締めた。
「んなこと、させるもんか。絶対に……!」
正太は、さちが入るはずの桐箱を見た。父が作ったのだというその箱を、思い切り蹴り付ける。これは、本当はさちが嫁入りの時に切るはずだった桐だ。箪笥にでもして、長く使えばいいと水をやる度に父が言っていた。
その父は、着物をさちに着せると、ふらふらと外に出てしまった。朝から幾度となくそうしている。ぼんやりと生気のない瞳で、玄関に刺さった白羽を眺めているのだ。
「さち!」
正太はさちを振り返った。
決めた。もう決めた。絶対に、さちを鬼にはやらない。
さちの手を引いて正太は土間に走った。置いてある鉈を手に、さちを振り返る。
あの鬼共に食われるなら、いっそのこと、今ここで自分が……!
ぶるぶると正太の手が震えた。鉈を掲げようとしたその時、法師の言葉が脳裏をよぎった。
「大丈夫。なにも心配はいらないよ」
穏やかにそう言った。その言葉に縋りたい。
正太の手から鉈が滑り落ちた。
「にいに?」
さちが正太を見上げる。
「……大丈夫だ、さち」
絶対に、にいちゃんが守ってやるからな。
「おっとう」
白羽の矢を呆然と眺めていた父は、正太の声で我に返った。
「準備、できたけぇ」
「ああ」
うつろに返事をして、家に入る。
「正太?」
姿が見えない。まだ自分を怒っているのか。父はがくりと肩を落とした。その視線の先に、小さな桐の箱があった。箱の隅から、白い着物が少し、はみだしている。
「さち、さち」
よろめくように近づいた。箱に触れると、もう涙が止まらなかった。
「さち、堪忍な、堪忍な……」
父親の嗚咽を、正太は箱の中で聞いていた。
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