人類文明機械式

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  第1幕 【キカイ】機械:機会  

 行き過ぎた悲劇は、喜劇よりも滑稽だと申します。
 これはまさしくそんなお話。
 寂れた舞台で語るに相応しい、終わりのない物語でございます。
 この舞台に立ち会われた紳士淑女の皆様、どうか、私のお話にしばらくお付き合いを。

 メモリを合わせていただけますか?今日は西暦2548年の8月29日です。時刻は、そう、19時22分38秒。時間に大した意味はありませんがね、まあご愛嬌と言うことで。
 ほら、空を見上げてください。どんよりとした黒雲が隙間なく覆ってなにひとつ見えない。 今この時間、地球上のどこにも星は瞬かず、そして太陽が訪れることもない。夜だからではないのです。この黒雲はまさしく今世界を覆いつくしているのです。老いも若きも金持ちも貧乏人にも等しく雨を降らせたこの雲が、世界の運命を変えてしまった。
 
 コールタールのように黒く重く糸を引くような嫌な雨でした。
 とっさに人々は、ついに自分たちが地球を壊してしまったのだと考えたそうです。発達した文明に耐え切れなくなった地球がついに壊れたのだと。あるいはそちらのほうがまだ良かったかもしれませんでしたがね。
 止むことのないその雨は、まず皮膚を腐らせました。空中に霧散した細かな細かな粒子が肺に入り込み、やがて人々を死に至らしめました。
 木々は枯れ、海は腐り、世界はそうして死んでゆきました。
 死滅した世界に降り注ぎ続ける黒い雨。なんと荒涼とした景色でしょう。
 このまま誰もが死ぬのだと思ったとき、その青年は颯爽と現れました。
 そうして皆に告げたのです。
「肉の体を捨てよう」
 彼は機械学の権威でした。名をヴァンガッシュ。もうじき30になるという若き天才は力説しました。
「機械の体ならば、この雨に死ぬこともない」

 そして人々がどうしたか。皆さんおわかりでしょうか?
 ためらい嘆いた人々は、しかし隣人が血を吐いて倒れていくのを見て、本能が訴える恐怖に勝てなくなったのです。あるいは腕の中で震えるわが子を守りたいと願う親もいました。
「我々は、無力だ。だがだからこそ知恵を持つ」
 そういったのはどの国の首相だったか、生憎私の記憶には残っておりませんが、彼は国を挙げて男の提案に乗りました。
 さてここで皆さん、疑問に思われたのでは?そもそも人から簡単に鋼の体、ああまどろっこしいですね、アンドロイドとでも言いましょうか。そのほうがわかりやすいですね?
 アンドロイドに乗り換えることが出来るのかと。結論から申し上げますと、出来てしまったのです。そのくらい文明は進んでいました。すでに事故や先天性で体の機能を失った人々へのフォローシステムとして、部分の交換は確立していたのです。今笑ったそこのお嬢さん、ありえないなどと否定してはいけません。
 100年の間に人がどのくらい進化するのかご存知ですか?あるいはご自分が生まれてから今まででもいい。なにが発明されました?今、生活に欠かせないあの家電製品は、あなたが生まれた時もありましたか?
 ほら、ね。歴史の1ページは今こうしている瞬間も確実に刻まれているのですよ。
 おっと話が大幅に脱線しましたね。失礼。

 人類はそうやって、アンドロイド転換手術を受けていったのです。脳を残し、心と呼ばれる部分を守ったまま、他は機械に頼りました。さすがの黒い雨も金属までは溶かさなかった。老いることなく、死ぬことのない体を人類は手に入れたのです。ハレルヤ!なんと素晴らしいことでしょうか。
 ただ中には、宗教や信条を理由に断る人々もいました。信念は命より尊いとする彼らを、私は賞賛したい。そういう生き方は生憎私には出来ませんので。
 彼らは自らの信じる道のため、その屍を築いていきました。ごくごくわずかになったその子孫の中には、転換手術を望む者もいました。そうしてますます彼らの数は少なくなっていったのです。
 初めて雨が降りだした日から150年経った今はもう、ただ老婆が一人、静かに死を待つのみでした。つがいとなる相手もいません。皆死んでしまいました。
 彼女が最後の純粋な人類です。
 暖炉に似せた暖房器具の前で、老婆は眠りかけました。目に映る炎が、思い出を囁きかけてきます。きっと今日は家族の夢が見られる、と老婆が思った時、扉が開きました。
 地下道を通って現れたその人物を、老婆はよく知っていました。自分が生れ落ちるその前から生きていた男。恋の相談をしたことすらあります。
「ヴァンガッシュかい…」
「チェルサン」
 ヴァンガッシュが老婆に呼びかけました。ちっとも変わらないその作り物の姿。人である時の姿を正確に模したそれは、まるで人間のようでした。
 他の人々も、そう。彼らはかつてとなにひとつ変わらないと言いますが、老婆やその両親・仲間達はどうしても受け入れられませんでした。外見がいつまでも変わらないその姿は、やはりヒトではない別のなにかに思えたのです。
 老婆はただ目を細めました。その表情が笑っているのかどうか、ヴァンガッシュの視神経につながれたカメラは、捕らえきることができませんでした。

 こうして舞台は整いました。
 死滅した世界、人類最後の純正人間である老婆、全ての災厄の元ヴァンガッシュ。
 彼が望んだこと、彼女が拒んだこと、全ての輪が巡り始めます。
 ここらで一度幕を引かせていただきますよ。5分の休憩をいただきます。お手洗いはあちら、右手の奥にあります。どうぞご利用くださいませ。
 では皆様、ごきげんよう。
 
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