人類文明機械式

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  第2幕 【コード】配線:行動  

 お待たせいたしました。第2幕の幕開きでございます。
 ほら、まだ席についていないあなた、今のうちにどうぞおかけなさいな。私しばらくお待ちしますので。
 よろしいですか?
 さて、人類最後の生き残りの老婆の下にヴァンガッシュがやって来ました。人類の災厄の元と呼ばれております。おっと、もっともそう呼んでいるのは私だけの話で、彼の世界では英雄扱いでございますよ。勘違いされませぬよう。

 人類最後の生き残りの老婆の下にやってきたヴァンガッシュ。彼はこれまで、自然回帰派と呼ばれるアンドロイド転換手術を拒否した人々を必死に説得し続けてきました。時に石を投げられ、回路を損傷したこともありますが、彼はそこに通い続けました。
 ねぇ、お嬢さん。その情熱にほだされるのが人情と言うものでしょう。そうは思いませんか?自然回帰派の偉い人は言ったそうですよ。

「志の違いは握手を拒む理由にはならない」

 彼らは、ヴァンガッシュの説得にこそ応じませんでしたが、友として認めました。

 街ではアンドロイド化した人々が日常の暮らしを送っていました。腐る体がなければ、黒い雨など怖くないものです。おまけによほどのことがない限り死なない体になってしまった。オイルは体内で自動的にリサイクルされるので、半永久的に心配ご無用。脳も、活化剤を打ち込んで細胞活性を促せば、老化を食い止められました。
 そうすると、ほら、働く必要がないんですよ。
 そんなことしなくても生きていけちゃうんです。だって食べる必要もない。
 でも不思議なことに、人は働き続けた。どこぞの本に書いてあったのですが、ヒトがもっとも耐えられないのは無為な時間なのだそうです。やることがなければ生きていけない、変な生物ですよね。ふっと時間があいたら「なにしようかな」と考えるでしょう?それがその証です。
 日常と変わらない生活を送り続けるヒトの空には、相変わらず黒雲が立ち込めております。人々は忘れかけていました。太陽のぬくもり、風のそよぎ、海のさざめき、花の香り、人肌の感触。降り続けるこの黒い雨が奪っていったもの全て。
 記憶は記憶として残っていても、それは思い出さなければ意味のないことでした。

「チェルサン」
 ヴァンガッシュが老婆に声をかけました。あるいは死んでいるようにも見える老婆は、かさかさの唇を開いて、ヴァンガッシュを呼びました。
「ヴァンガッシュかい…」
「遅くなってすまなかった。聞いたよ、ラオスが死んだって。もう、君だけだ」
 暖炉の炎が揺らめいたその光加減で、老婆が頷いたように見えました。実際に老婆は微笑んだだけでした。
「いい…最後だったわ…」
 チェルサンはラオスの最後を思い出しながら告げました。
ラオスは、10代の少年でした。まだ他にも6人ほどいた頃、彼は外の世界が見たいと外に飛び出し、雨に打たれたのです。皮膚を腐らせながら彼は帰ってきました。その身についた黒い雨の粒子が、わずかに残ったその人々の息の根を止めました。たまたま他の部屋にいたチェルサンはホームヘルパー係のアンドロイド型人類によって隔離されました。彼女が看取ることを許されたのは、ラオスだけ。他の人々はすでに息絶え焼却されていました。
「チェルサン、僕は死ぬの?」
 ラオスは言いました。体に黒い斑点が現れていました。ベッドに横たわるラオスには、痛みを取り除く点滴が打たれていました。しかしそれも、慰めにしかなりません。
「雨に当たってしまったわ」
 チェルサンは答えました。やさしく、腐り始めたラオスの手をとりながら。
 ラオスの瞳にじんわりと涙がたまりました。
 少年は、ただ外に出たかった。閉ざされたこの場所で大人達が語り継いできた太陽と言うもの、綺麗だったという外の世界、それが見てみたかったのです。少年の好奇心を誰が責められるのでしょう。
 しかしなんという悲劇。開け放った扉の先に、そんなものはどこにもなかった。
「ラオス、あなたが望むなら…」
 チェルサンは言いました。機械化を促しているのだとラオスはその幼い心で思いました。
 彼は思い出していました。彼の見た光景を。
 空を覆いつくした黒雲。コールタールのようにどろどろした黒い雨。全てが腐りきって、機械以外の何者も生息してはいない。そこで動く、人の姿を模したアンドロイド達。
 死滅した世界で動く虚ろな人形達。
 ラオスは涙を流しながら、チェルサンに訴えました。見開かれた瞳に恐怖が滲みます。
「チェルサン、チェルサン、僕は死にたくない…!」
 じんわりと自分に死が迫ってくるのがラオスにはわかりました。生物的な本能が、それを恐れています。逃げようがないのだと、それも察しました。
「死にたくはない…だけどあんな姿で生きたくはない…!」
 そう言って歯を鳴らして涙を流しながら、ラオスはチェルサンの手を握り締めました。
 あれはもはやヒトではない。
 黒い雨をしたたらせながら、普通に歩くアンドロイド型人類を見た瞬間、ぞっと背筋を駆けた恐怖をラオスは覚えていました。
「怖いよ…怖いよ…」
 ラオスは瞳を見開いたまま、チェルサンに訴え続けました。死ぬのが怖いのか、それとも別のことを訴えているのか判断のつかないチェルサンは、ただ一言、穏やかに告げました。
「それはあなたが人間だからよ、ラオス。良き旅路を」
 ラオスが震えながらチェルサンを見ました。彼を見つめる瞳が優しいのを知って、ラオスは初めて微笑みました。最後に一人彼女を残してしまうのだと、罪悪感を胸に刻みながら。
「さよなら、チェルサン」
 ごめんなさい、と消え入るような声でラオスは言いました。
 チェルサンは黙って微笑み返しました。ラオスがもう見ていないと知っていても。あなたを責める気はないのよ、と告げているような笑顔でした。
 少年の体を蝕む黒い斑点は体中に広がって、いたるところから腐臭がし始めていました。
 
「いい最後?」
 ヴァンガッシュは眉をひそめました。彼には到底理解できない感覚です。
「チェルサン、頼む。もう君一人だ。人類は次世代に続かない。だったら君が死ぬ意味なんてないじゃないか。僕らと共に生きよう」
 ヴァンガッシュの言葉に、チェルサンはただ曖昧に微笑みました。困ったようなその唇から、するりと問いが投げかけられました。
「貴方達は、なんのために生きているの?」

 さて、お集まりの皆様はいかがでしょう?
 なんのために生きていると聞かれて、お答えいただける方はどうぞ挙手を。え?私ですか?私は、そうですね…さしずめ語るために生きております。言葉を失ったら、私は生きてはいないでしょう。
 さて、ヴァンガッシュはなんと答えたか。おわかりになる方いらっしゃいますか?
 思考を放棄してはいけませんよ。まずは考えること。それがヒトと獣の違いです。
 
 ヴァンガッシュは答えました。
「生きるために生きている」

 本来、老婆のした質問に正しい正解はどこにもないのです。
 しかしそれでも老婆は寂しそうに瞳を伏せましたし、ヴァンガッシュの脳ではある記憶が再生されつつありました。
 人類文明機械式、今宵はここまで。
 皆様、第3幕でお会いいたしましょう。
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